観たもの|2024年1月
001|御法度(1999年/100分)
002|サイコ・ゴアマン(2020年/95分)
003|新空港占拠 第一話(2023年)
004|ハムレット(1996年/242分)
005|レザボア・ドッグス(1992年/100分)
006|THE BATMAN - ザ・バットマン -(2022年/176分)
007|新空港占拠 第二話(2024年)
008|新空港占拠 第三話(2024年)
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1月2日
御法度(1999年/100分)
https://gyazo.com/39f4ff8312b04669bbe0afedb0b08fcc
7年ぶりくらいの観賞。深みに嵌る云々。「組織にサークルクラッシャーがきたらどうなるか」を男色でやってる映画と思う。松田龍平さんは当時16歳くらいだったはずで、今回眺めても思ったがまあ「美少年」という味がした。このころの人間年齢と見た目と声色と表情からしか得られないものがあると感じる。それを映画として収めてくださったのだからとてもありがたい。この映画における松田龍平さんの役どころは、そのキャラクターそのものが「死に近しいもの」「死に誘うもの」を有しているのだと思う。様相としては神秘的だが有するものは混沌であり悪属性なのだろうか(ぼくはアライメントに詳しいわけではないのだが)。しかしそれにしてもこの頃に「男たちを魅了する美少年の役を演じてくれ」となってそれをしっかり全うされているのだからまあすごいな………と感じる。映し方もあるやもだが。
松田龍平さん演ずる惣三郎はかなりそうした、自分の魅力に自覚的で、かつ周囲にそれをいかんとなく発揮して、周囲を「もしやの坩堝」に落とす(*1)。そしてそこに、自覚的ではあるが行使せず身振り手振りをわきまえている立場として出ているのが、武田真治演ずる沖田総司という印象があった。劇中における沖田総司はサークラではない。中立的というか、サークル内に和をもたらす性質を有するものである。が、おそらく性質的には混沌寄りで、破壊しようと思えばできる身の振り方がわかる方でもあるのだと思う。でもそれをしないのが沖田氏であり、そこに自覚的であるからこそ二者へ向ける言葉が「軽蔑」であり、雨月物語の「菊花の契り」にたいする解釈のスタンスであり、ラストシークでの「行使」へ行動が向かうのだろうな、と感じる。サークル内での紅一点なのは間違いなく、そこに違いがあるとすれば「その派閥内で生き延びてこれたか否か」「どのくらいそのようなものとして生きてきたか」「自身の能力や姿型に対しての行いをどう扱えるか」「当人にその気があるか」というものなのかもしれない。
現実にそれを行使する人間どもの云々と、フィクション上の読み物としてそれに触れる云々の違いというか、沖田自身そのような言い寄られ方をした身であり、だからこそそれによって隊を乱す惣三郎が許せなかったのだろうと、なんとなく思う。ラストの叫びで明確に惣三郎の死(死神、化物の蛮行を裁くさま)が示されているのも、直前の雨月物語の云々と相まって「これは隊に入ってきた怪異的存在との云々だった」という味がするようになっていると思った。だからこそわたしはこの映画がすきだし、再びみたくなるのだろうなと。そういうお話がすきなので。坂本龍一さんの音楽も非常によく、なんにしてもおすすめの映画。みましょう、と勧めた方が直後の感想場でたのしそうにしていたのがとてもよかった(*2)
*1 トミーズ雅とのくだりなんかがいかにもすぎて笑ってしまう。当人にその気はないが、くらっとくる一瞬のよぎりが発生するというもの(トミーズ雅氏はしっかりと理性が勝ったが)。どうしようもない粘着性を有する男として出てくる田口トモロヲ氏もまたよい。セックスを覚えた結果として猿みたいにそればかりをするようになる様相がとてもいい。ちんぽで動いている。井上先生など、そういう立場の人間に対しては「優秀な隊の人間」としてふるまうのもまた、そういう能力を有するものだからこそのものがあると感じる。自覚的であれ無自覚であれ。重要な動作こそあれ、定点的な登場をする浅野忠信さんがまた、やり口としては強引なのだが「彼氏ポジにずうっと彼がいるんだろうな」となるのも、さまざまな登場人物の様相をみているとぼんやりわかる。惣三郎からすると、「都合のよさ」の性質が、田口トモロヲ氏とは違う方向性で有しておられるのだと思う(「そういう関係性のもの」として傍に置いておくことで効力を発するもの。彼にとっての魔除けであり、彼に快楽を教えたものであり、だからこそ彼にとって切り捨てる快楽へ至るもの)
*2 あと最後に、地味にびっくりしたことを書いておくと、ラストの、ビートたけし氏が「化物め」と言って早咲きの桜を斬るシーンにおいて、「叫び声」がひとつあがるのだが、わたしのみた版ではたしかそこに、沖田総司が場へきたことに喜びのニュアンスで応える、惣三郎の「沖田さん!」という声があったのである。実際、あとで確認をしてみると、たしかにわたしがみた版には「沖田さん!」の声があり、そこへ「叫び声」がした。だから今回の観賞時は、この、ラストシークの違いでかなり違和感を覚えたのだが、「いやこれはこれでなるほどという演出なのでは」となってきたので、この二つのニュアンスの違いをなんとなく書いておく。
わたしがみた版は、「だれがどうなったか」が明確な版(観賞者に伝わりやすくしている)なのだと思う。沖田が去り、暫くしてから惣三郎の「沖田さん」という声がすることで、動作としては「沖田、惣三郎の元へ向かう(起点)→惣三郎、やってきた沖田へ声を発する(受け)→沖田、叫び彼を始末する(応え)」の順。それらが明確に書かれていたのが「わたしのみた版」と思う。
が、今回の「松竹プラス」にてやっていた版は、たけし氏の「沖田が加納に色をかけていたのではなく、加納が沖田に色をかけていたのか」という台詞のあとに「叫び」が聞こえ、たけしが「つばを吐き捨て」「早咲きの桜を斬り捨てる」というもので、「どうなったかは明確」だが、「どちらの叫び声であるかはわからないようになっている」のが大事な気がした。前段の文脈を踏まえるとこれは明らかにこれは「沖田の叫び声(惣三郎への斬りかかり)」なのだが、「叫び」だけを置くことで「これは惣三郎の断末魔ではないか」という解釈を発生させている。これがかなり大事と思う。どちらの叫びであっても結局「終幕」なのは間違いない。どちらにしても「惣三郎の末路」が示されている。けれども「余地」がある。これがたぶんすごい。向かう道中案内をどの程度示すか。わかりやすさの塩梅をどうするか。その試行錯誤があったのだろうと感じる。そういう意味では、わたしが今回みたものは、たといどちらの叫びであれ「死」があるのは明確だという、わりとものすごい演出をみたのかもしれない。より純化された状態として、どちらの解釈でも起こっていることが明確なシーンを構築しているのだし。
ただ、わたしは最初にみたのが「沖田さん」の版なので、そちらに標準フォーマットがあるのが申し訳ないところである(当時仕事先の先輩に勧めていただいてみた映画、という文脈もある)。映画というのはどうしてもこういう「思い出補正」が発生することがある(ブレードランナーのバージョン違い、地獄の黙示録の版の違いの云々など)。やりたかったほんとうの景色はこれだ、というものと、とはいえお客がそれを受け取れるのか………という話はどこでもあるのだろう。悪い意味はなく、低くみて導線をしっかり引くか、高くみて相手を向かわせるか。これはとても大事な考慮だ。ちなみに今回は、一緒にみた方々が感想場で話してくださった云々で咀嚼ができたところが多い。ものは示すのも受け取るのもほんとに難しい。漠然と思う。
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1月5日
サイコ・ゴアマン(2020年/95分)
https://www.youtube.com/watch?v=mAMs_7ZIXhU
疲弊があるので手短。
世界を破壊できるパワーを有する怪人サイコ・ゴアマンの支配権を、性格がだいぶお元気な少女が有したらどうなるかという映画。80~90年代の特撮作品(それもTV放映版というよりは、雨宮慶太さんのZOとかゼイラムとか、ガイバーとか、その手のやつ)に触れていると、諸々の描写をみたときに追加でおほほな気持になると思う。監督さんがそういうのすきなんだろうな、というのがわかる。劇中の女の子は、支配欲はあるがこの世をどうこうしたいとかそういうのでなく、ただのクソガキさん(眉間にしわが寄るのがかわいい)なので、やることが基本的に自己世界範囲内での可愛らしいクソ動作なのがよい。終始たのしくみていられる。女の子の友達がサイコゴアマンがいろいろするせいで脳みそ君になったり、警官が化け物に変えられて「ころしてくれえ」と歎願していたり、合間合間のシーンでおこる「事故」がいちいちおもしろい。サイコゴアマンを倒しに来る面々のデザインも凝っててよい(翼が変形してソードになる天使的見た目の女怪人とか、人間ミキサー怪人とか、コマ撮りで宙に浮かぶ野郎とか)。人を選ぶかもしれないが、個人的にはかなりおすすめ。「アラジンと魔法のランプ」のジーニーがサイコゴアマンで、アラジンがクソガキ少女(かわいい)だったらこういう話になるのかも。そんな気がする。
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1月17日
新空港占拠 第一話(2023年)
https://www.youtube.com/watch?v=jpEtQANE3co
朝すぎるため殴り書き。
新空港占拠、疑似的におなじ用意立てをして(続編の立ち位置的にもメタ)事象を再演するなにか(それを建前として思惑を達成しようとする)ではあるなと感じるものの、感じるだけでなにもわからない。おいらはやっぱり、脚本上ぜんぜん必要じゃなかった、ドローンがへたくそ操縦で跳梁跋扈し櫻井翔を追っかけて無意味に爆発してたころがすきだ(第一話付近 )
続編でおなじ話をするやつはMGS2が印象深くある(思い出補正もあり )
個人的に新空港一話は骨だった。前作と同じ形の骨(お話の骨格)がそこにあるが、骨だけがあり食う場所がわからない。食うために落ち着くこともできない。折り合いのつけ方がわからない。わたしが肉と思ってたところは提供した側からすると可食部位じゃなかったのかもしれない。骨が肉だった。むなしい(別にむなしいこともない )
映画「マイノリティリポート(逃亡者)」の骨を抜き出して別の形にしたら映画「AI崩壊」になるが、実はマイノリティリポートのおもしろいところは骨じゃなくてそこへ肉付けしたスピルバーグ氏の、脚本上そこまで必要ではないであろうヘンテコなドタバタの味感というかインディジョーンズ的アクション(スタイリッシュになるようでならないもの)(※個人の感想)なので、実はSF映画として楽しんでいるかというとそうでもない、みたいな気持ちになってくる。とはいえ内容はちゃんと組んでいるから、そのあたり強いんだろうなとなる。ちなみにAI崩壊は「98%の確率で『大沢たかおが路地を右に曲がる』と予測する超高性能AIのシーク」と「脚本の都合上絶対に割れない強化ガラス」と「マリオのスターを取得したがごとく船内を駆け警備員を吹き飛ばす大沢たかお」がおもしろい。ので結局AI崩壊も変なところがすき。映画自体は普通(90-100分ならすきだったかも)AIを筋肉でなんとかするシュワちゃん(量産型シュワ映画)が大沢たかおパパになったなにか 。
変なあれすが、新空港は昔の、小情報量内でつくられてたゲーム(ファミコンとかPS1のやつ)がPS4でできる超すげーなすごいな3Dゲーになったときに、そのままの文章やシチュで映像化すると視認箇所だけが増えて結果違和感になって困る、みたいな体験を味わてるのかもしれない。そういう意味ではこう、新空港占拠の合間合間の映像の違和感は、ゲームの合間にはさまる別におもしろくもないムービーを、どういう気持ちで眺めたらいいかわからない、の感が似てるかもしれない。「脱出ゲームのあらましだけおまえらには教えるが、そこからどうしたらいいか/脱出できるかのルールとかはお前が自力でとにかくみつけろ!そんでたのしめ!そしたらたのしいから!」みたいな(脱出ゲームに失礼かもしれない。申し訳ない)。娯楽というものをどう楽しむかを問われている気がする。そんなことはない。たぶん。
大病院しかり新空港しかり、「集団でなにかをおもしろがる(瞬時になにかをコンテンツ化する、というもの)」しぐさへ意図的に事象をぶつけてきてる作品とは思うため(ぶつけかたが上手いかどうかは別)、そのあたりはなんというか、現代的な文脈の中で建てられた作品なのだなあと強く感じる。おもしろさとはなんだろうか。自分がおもしろいと思うものはとっくに廃れた古いものなのかもしれないが、古いとか新しいとかは状況に左右されやすいし流れが早い。とするとこういうものは結局のところ、あうあわないであるとか、そのときそのときのテンションだなあ、というところへ落ち着いてゆく。これでいいのかわからない。おもしろさはむずかしい。
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1月20日
ハムレット(1996年/242分)
https://gyazo.com/eb9eee189694ef71bb76851d75e881d8
100円セールだったので視聴。4時間ある。めちゃくちゃ長い(二時間半のところでインターミッションあり)。つまりどういうことかといえば、原作の戯曲であるシェイクスピア氏のハムレットを一語一句そのまま、舞台作品ではなくて映画作品としてめちゃお金かけて撮ったらどうなるか、をほんとうにやってしまった映画。そういう味。なので絵的に迫力のある場面がめちゃくちゃ多い。多いが、やはりそもそもが「舞台上で演じられているものをみる」前提のもと組まれている台詞であり戯曲構成であるから、どれだけしっかり映像が組まれていたとしても、どうしても映像としてみるにあたっては、良くも悪くも「くどさ」を感じざるをえないと思う。なぜそうなるかを考えると、映画はみるべきものを明確に示してくれるため、そこまで映さなくてもいいよ、が発生してしまうのだと思う。画面上に映るものをみる、になるのと、舞台上にあるものをみる、というのでは、基本的に自分の選択するときの動作が明確に異なる。舞台上にあるものをみるときは、自分はいろいろの場所へ向けて自分からピントをあわあせればよく、つまりはこの場合発生するのは自分がカメラ位置になることである。映画作品として目撃するときはやはり完全に「だれかの視点を眺めさせてもらう」方向になるので(舞台の場合も映像の場合もそこに演出が関わるのだが)、どうしてもやはり過剰であるという印象にはならざるを得ない。
けれどもこの映画が頑張っているのはとにかくそこで、「映像作品としてシェイクスピアのハムレットをとにかくしっかりやったらこうなりますよ」をただただ示している。勢いというかノリとか規模がありすぎて最後の駆けつけるシークエンスのテンションが「いやそんなテンション高いですかね!?」みたになるところもあるのだが、なんにしてもそういう感じでわーっと4時間観ること自体は個人的にたのしいとは思う。ひとつ問題があるとすれば、96年の映画だからか、どうしても多少合間合間の特撮シーンが、急に「仮面ライダーでみた!」みたいな感じになるので、そのへんシュールっちゃシュールではある。さっきから散々おなじことをうだうだ書き連ねているが、とにかく劇作のつくりをそのまま映像として出力しているので、本来映像作品として行うべき省略ができない状態にある(劇作での省略と、映画での省略はまた違うと思う)。そういう意味では、舞台劇と映画において、「なぜこちらの形での出力だと違和感はないのに、こちらの形での出力だと途端に違和を思うのか」みたいなものを、シナリオ本と、実際の舞台作品と、映画作品とをみることでいろいろわかるような気がする。そして思うのは、作品はそれぞれの出力方法によってあるべき姿がぜんぜん違うのだから、無理にそこへ別出力時に成立するものをねじ込む必要はないのではないか、ということだ(*1)
小説が映画になるとき、アニメになるとき。漫画がアニメになるとき、実写になるとき。映画が小説になるとき、舞台作品になるとき。たぶんそれぞれに最適解があり、そこにどうアプローチをかけてゆくかが大事なのだと思う。同じセリフをそのまま喋らせるからよい、そっくりな見た目をしているからよい、などということは基本ない。有名な台詞などはあるにしても、それぞれの流れや出力の状況に必要か不必要かがやはり大事で、それらがあらわすものがそもそもなんであるか、この場面や状況の変動はなにであるか、という云々を個人的には大事にしてほしい(*2)。削ったり足したりがむずかしいのは重々承知だが、別メディアへの変換とはこういうもので、できる限り真摯に努めるべきものであると思う。「このくらいでいいだろう」と事象をないがしろにするのは危険と思う。うだうだ申し訳ない。ホレイショーやっぱりいいですね、となった映画(*3)
*1 必要ないのではないかなどという言葉を用いたが、これはとにかく場合によるもので、何度も書いているがこの映画「ハムレット」は、それをあえてやり、映画として成立させることでパワーを有している作品と思う。石ノ森章太郎氏の漫画「仮面ライダー」内での描写をそのまま映画としてやろうとした結果「シン仮面ライダー」が生じたが、漫画→映画に表現形式をそのまま落とし込もうとしたので、良くもあれば悩ましさにもなっている、みたいなものが近いっちゃ近いかもしれない。これはあくまでも別で近しいものがあるとすれば、ということで、ハムレットとシン仮面ライダーから受ける味が近いとか、そういう話をしているわけではない。なにをやろうとしたかというスタンス的なあれである。
*2 「シナリオはイタダキで書け」という書籍があり、個人的にはその中で書かれていた「原作のある作品を映像に起こす場合に、なにをどう考えてゆけばよいか(取捨選択)」の云々がおもしろかった。
https://gyazo.com/7796840ff72ac150724f8ffc970262e9
「どうすれば映像をおもしろいものにするための設計図のひとつ(脚本にするための脚色)を行えるか」を、邦画の脚本をずうっと書いてきた方が、自分がどうやって脚本家になりご飯を食べてきたか云々踏まえつつ喋っているのを読めるのがよい(この方はこの方で「幻魔大戦」や「廃市」の脚本をお書きになっておられる)。この手の創作本は個人的に、その人の考えを読めるのがたのしいので、実際に書かれている創作術自体は活用してもしなくてもどっちでもいいと思う。よいと思ったら試してみよう、くらいがちょうどよい。
*3 アルミンめっちゃホレイショーやね、とも改めてなった。復讐者のお話であるし、根底にハムレットが置かれているのだろうなと思う。個人的に、古典(の小説、戯曲、映画、漫画などなど)をいまの方に勧めるのはよっぽど興味がない限りするものでもないよな、と思うのだが、こんな感じで現代の作品から導線を紐づけられるとよいのかもしれない。触れることを強要したくはないので、そこは注意したい。
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1月26日
レザボア・ドッグス(1992年/100分)
https://www.youtube.com/watch?v=EaD7UtsmIUM&t=17s
手短。
久しぶりの視聴。改めてみるとかなり舞台劇ぽい構成だったのだなと感じた。冒頭の会話シーンや幕ごとにそれぞれが合流するまでの話が挟まる云々だとか含めて、ワンシチュエーションものとしてしっかり組んでいる映画だと感じる。
この日は元々「プラネットテラー」をお知り合いの方と観るつもりだったのだが、日本語字幕がなかったため急遽これをみることになった。結果、よくよく考えるとぜんぜん味感が違う映画だったので、「居酒屋に行こうと思ったら閉まってたので仕方なく懐石料理屋へ行った」みたいなノリになってしまったかもしれない(申し訳ない狐さん)。タランティーノのさんはこれが初監督作品なわけで、そら一作目でこれだけ撮れたら10作で引退もされはるわね、などと勝手に思ったりする。作品ごとに違いはあれど、撮りたいものを撮るべき形でずうっと組み上げておられるのがタランティーノさんだなと思う。ロバートロドリゲスさんもそうだが、近しいようで存外ノリがぜんぜん違う二者なのかもしれん、とぼんやり自覚をした日だった。
プシェミさんだけが画面の外へ出ることができる、なぜそういう風な末路に至るか、描写としてみているとわかるようになっているのが好き。このあたりの云々含めても劇作的なのかもしれない。内容は違うが、状況として近しいのは存外スティーヴンキング氏原作の映画「ミスト」の顛末やもと思う。わたしはすきだが、いまだと、タラさんの映画に影響を受けた作品がたくさんあるわけで、故におもしろさがどこにあるかを、摂取する際に困惑する方がいるかもしれないとも思う。このあたりは個々人の触れてきたものとかによりすぎるので、なんともわからないが(*1)
*1 作劇としては犯罪ものをやりつつ、構成と撮り方で工夫をして、限られた予算内で組める諸々をやっているなあと感じた。構成のおかげで、アクションシーク自体を撮らずに「そういう事象があった」ことをちゃんと示せるようになっている。この辺の省略の味感も、どちらかというと舞台演劇ぽいなと個人的には感じる(あくまでも倉庫内での事象が主であるし。幕切れというか退場の感じも含め)
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1月27日
THE BATMAN - ザ・バットマン -(2022年/176分)
https://www.youtube.com/watch?v=ImEaPpJhvrs
一年ぶりの観賞。個人的にはよかったが、同時視聴には不向きの映画だったと反省。一緒にみていただいた三者さまには申し訳ないことをした。同時視聴は、映画をみたあとに感想を喋るものではあるが、内容が合わないときや個人的嫌悪が生じたときに困る観賞形式ではあるなと。とはいえそも、映画観賞はおもしろい/おもしろくないで受け取りが事故る前提のものである。なんにしてもわたしのチョイスが下手。次はもうすこし気を付けたい。ザバットマン自体は個人的によい映画だと思っている。3時間はさすがに長いし頭痛になるかもしれないが(なった)それだけの時間をかけて真っ当にクライムをやっているのがよい。バットマン世界を映画にするにはこの骨子が必要なのだと思う。構成的には別物だが『シン仮面ライダー』の味が近い。原典の描写を映像に起こすのは、だからこそ可能な表現もあるが、下手をすると「原作を読めばいいのでは」になるときがある。そのあたりザバットマンは、あくまでも映画として組んでいるからどうにかなっている気がする。
個人的にこの映画でいちばんすきなのは、半ばのカーチェイスシーンだ。このシーンを目撃できただけで「みてよかった」と思った。ただ、なんというか、この映画はテレビで見ると魅力が半減する作品でもあるなと、今回みて自覚した。立ち位置というか体感的としては「舞台作品をDVDでみる」ときの感じがたぶん近いやも。舞台でみるからよいものが、テレビの画面に収まると途端にまどろっこしくなる、みたいな。もちろんものによるのだが。
偶然にも、ぼくはこの同時視聴の数日前に映画「ハムレット」を目撃した。4時間ある映画で、シェイクスピア劇の映像物としてはすさまじいものがあったが、映画としてはどうしてもしんどいところがあった。舞台と違い映画の場合、みる場所を確定させられるからこうなるのかなと感じる。このあたりがたぶん「コミックスままの映像化」「小説ままの映像化」「舞台作品ままの完全映画化」をせねばならなくなったときに発生する歪さと思う(*2)。「TVでみると魅力半減の映画」「TVでみてもたのしめる映画」「TVだからこそたのしい映画」「劇場だからこそたのしい映画」「スマホがちょうどいい映画」そういうものがこの世にはたくさん存在するのだと思う。とはいえぼくにとっては、間違いなく昨年劇場でみれてよかった映画のひとつ。主演の方がどことなく「クロウ/飛翔伝説」ぽいビジュアルなのも好き(*3)
*1 このあたり思わされた映画が、この一年だと「ゴーンガール」「徳川セックス禁止令」「溺れるナイフ」「ザバットマン」になる。「令和シャーク」「デストイレ」などの、Z級映画は逆にもう割り切って観れるので、同時視聴へのアプローチとしてはマッチしているのかもしれない(「なにかについて雑多にたのしく話す」という意味では)。しっかりと感想を話し合う観賞会や読書会は、どちらかというとあらかじめ個々人でみた挙句に、その場で言葉をかわすほうがたぶんよい。ここに違いがあるとしたら、それはおそらく、間に「ものをみたあとの、なにもない時間(映画みてすぐ話す、ではなく、日常を過ごす時間があるということ)」があるかないかが、大事になるのかもなのかもしれない。漠然とした書きなぐりで申し訳ない。
*2 それがよく働くときもあれば良い効果を生まないときもある。逆に改変が歪すぎて良さを消し去ることもある。状況に応じて別媒体への起こしはあるべきと思うが、さまざまな思惑があったりしてなかなかそうならない現実がある。というか基本はうまくゆかない。なにかの思惑の下駄になる。
*3
The Crow - Official Trailer
https://youtu.be/cNvd0bB4nPM?si=ioPnP8N9tpTVxnSp
「リトルトウキョー殺人課」で、ドルフラングレンの相棒をやっていたブランドンリーさん主演の映画。監督は「ダークシティ」「アイロボット」、最近だと「キングオブエジプト」を撮ったアレックス・プロヤスさん。個人的にはおすすめ。
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1月28日
新空港占拠 第二話(2024年)
https://www.youtube.com/watch?v=8YftWtNMbaQ
例によって殴り書きです。すみません。
やはりというか、思った通りの事柄しか生じなかった二話である。想像した通りに想像した通りのことが起きて、起きて、終わっていった。そんな二話だった。だから内容があったかというと正直ない。45分が長く感じた。それでも一話よりは個人的にすきなシーンが多く、鯉の水槽みたいなところへいれられてゆるめのじょぼじょぼ、つまりは風呂炊きの状態みたいな感じで水責めされるおじさんのシークエンスがまずよかった。たぶんソウシリーズとかだったら、立った状態のおじさんが、結構な勢いの水によって責められる緊迫感があると思う。が、新空港占拠はそうはならない。風呂炊きの水量で責めてくる。それで50分、鯉の水槽みたいな大きさの容器へ水を入れ続ける。絶対50分もたない。そういう諸々を眺めるとぼくはなんとも「おお、占拠だ」となる(*1)
あと個人的にすきだったのはすべり台みたいなダクトをラップでぐるぐる巻きになった武蔵が滑り落ちてくるシーン。武蔵の叫び声が加工されており、10秒くらい息継ぎなしで叫び続ける武蔵がやってくる。どうみればいいかわからないが、とにかく滑り落ちてくるやばいシーンだ。その挙句に、前作で津田寛治の爆弾解除を手伝ってくれたおいちゃんと偶然の再会をする。「おまえとはこういう因縁があるのかもなあ」などとおっさんは言うが(台詞はうろおぼえ)が、視聴者であるわたしとしては「だれやねん」としかならない。とにかくいろいろ生えてくる。生やすことでドラマを生成している。キノコ栽培なのかもしれない。それをわたしは食べている。駄目な気がする。エレベーターのシーンも変だし、すこしずつ減ってゆく人質をようやく眺めた「獣」の一人が「………減ってねえか???」というのが間抜けな台詞すぎて困る。みてなかったモニターを眺めて人が減ってる事象に対し「減ってねえか………???」とおもわず口走ってしまう感じがゆるくてすき。やっぱりちいかわなのかもしれない。特に今回は獣だし(もうテンションがわからない)
変な話は置いといて、なぜこうした風に、「なにもないな」などという感覚になるかを考えると、やはり、これは本来ドラマとして製作するはずのものではなく、映画として組まれるはずだったものを起こしているせいでは、と強く感じる。たとえば120分尺のものを10話立て(一話45分なので、十話で450分。7.5時間)の形にせざるを得なかったからこうなったのではないか。一話での武蔵の巻き込まれや、一作目「大病院占拠」シリーズと同じ状況の発生、かつて仲間だった女子が犯人側として登場する云々、突然生えてくる武蔵の姉、兄、再び巻き込まれる妻等々。そういう諸々が発生しても大丈夫なのは冒頭で。と考えると一話まるまるかけてそれらをせざるを得なくなったのはやはり、ドラマに当てはめるために間を埋めた=本来ターゲットをしぼった話をするはずだったところへ、とりあえずでものを敷き詰めざるを得なかったせいという気がしてならない(*2)。新空港占拠はもしかすると、こんな感じで最初から最後まで進んでゆくのかもしれない。はたして大丈夫なのだろうか、となるが、そもそもなにが大丈夫で大丈夫じゃないのかもわからないので、これでいいっちゃいいのかもしれない。なにもよくないが。
*1 実際新空港占拠は、少々事象がデスゲームものに寄っており、個人的にはこのあたり、ザバットマンにてリドラが「世の悪事」を暴露していた事柄とジグソウが混ざっているのかもしれないなどと感じる。これの影響でザバットマンをみたときに、「あ、ザバットマンさんがおいおい嘘だろ顔をしている」と思ったシーンがあった。事故である。
*2 これに近しい性質のドラマシリーズがあるとしたら、ディズニー+にて配信されている「オビワンケノービ」が近いと思う。これも、本来は劇場作品として製作されるはずだったが、諸々あってドラマシリーズになった作品で、それゆえにシーンのひとつひとつは、どらまとしてかなり丁寧に組まれているものの、本来の骨組みが「映画の進行スピード用」のものなので、どうしてもドラマとしてみると間延びして感じられるところがあるのも否めない。なんでかわからんのだが、日常シーンとして、オビワンがなんらかの肉を加工する作業場で仕事をし、こっそり肉をふところへいれる描写が一話で二回入る。正直一回あればいいシーンなのに二回はいるから変にたのしい。個人的にはすきだが、テンポが損なわれているとは思う。
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1月31日
新空港占拠 第三話(2024年)
https://www.youtube.com/watch?v=SjKtM3fEKPI
みた。3話は全編通してかなりもたついているのが特徴だろうか。武蔵は向かった先で仲間が罠にかかったのでそれを助け出すためにわたわたする。空港内では人質が逃げようとするが、その先の扉の解除パスワードがわからず立ち往生、三回間違えたら完全にロックされる扉の前で立ち往生する(最終的にはどうにか外へ脱出するが、うまくいかずに捕まる。最初から最後までどこをとってもくだり的でしかないシーン)。一方そのころで武蔵の奥さんは銃を持った男の傷を手術することになる(それが合間合間にはいる。はいるが律儀に映しすぎているので正直ほんの数分でよいシークエンス)などなど。なんにしても各所でわたわたするのをぼんやりと、延々みせられる。
このあたりは前作の大病院でもそうではあった。あったが、今回はそれが三竦みなのでよりもたもたになっている。A/B/Cの、同時進行でなにかが進んで言った挙句にそれらがある場所で接触して………という組み方のやつと思うが、いかんせんドラマ内で起こる事象が、起こるようで起こってないなにかでしかないために、正直云って「それらをやられたところで」という気持ちにすこしなる。やるならやるなりに愛嬌があってほしいのだが、新空港占拠は大病院と違って、明確に相手方へダメージを与える描写が明確にあるのが悩ましい。それゆえに可愛げ的な意味では、大病院占拠のときにおそらく良点として働いていた、悪役側に愛着を感じる「なまか」的事象が生じにくくなっている(生じたからと言って良いわけでもないのだが、大病院占拠においては「それくらいの野郎どもがしでかしていた」感がよかったと思う)
難しいが、これが生じるか生じないかでは許容がぜんぜん違うものになると思う。悪役とはいえ愛嬌のあるキャラクターをやるべきだ、などと言いたいわけではない。ものによって悪役の描きはそれに準じたものがあるのがよいのではないか、というやつだ。今回の新空港占拠は、作品的には前回に同じく(というかより)突っ込みどころが多い作品であるのに、当人たちはすごくなにか、大それた犯罪を犯そうとしている、前作以上に計画性を有するやばい存在だ、みたいな感じで登場をする。するのにとにかく雑である。これはたぶん「前作よりスケールをでかくしなければならない」ニュアンスと、用意されたキャラクターの有する事象がミスマッチしているせいと感じる。獣側に愛着を持たせるつもりが今回はないのかもだが、とすれば結果的に観方が真面目寄りになってしまうのも否めないと思う(今回のわたしがすこしそうなっている)。なんにしても、「このかたがこれを演じますよ」という、大病院でのうま味(うま味???)を消してないか心配である(どっちかに降り切れてくれるならよいのだが、そうなる気はしないので。………)
なんにしてもとにかく、劇中でやっていることがほんとうに前作とまったく同じで、困惑になる。前話でも書いたが、おなじ骨を用いていること自体はよい。よいが、肉の部分のうま味の違いがわからない、前作から愛嬌を抜いたなにかが現状の新空港の状態に思う。もちろんすきなところもある。さっきも書いたがパスワードでやたらとみんなでわたわたするところとか、ソニンさんがどこまでも台詞の処理がうまいところとか、武蔵刑事の合間の台詞が「うそだろ」「まじかよ」「どういうことだ」の三つくらいしかない妙な感じとか。カットの接続がどうしたって変なところも個人的にはたのしかった(車で追いつくにしては明らかはやすぎる到着。囮になったのに獣が二手に分かれておじゃんになるなど云々)こんな感じで、たぶんわたしは「新空港」が想定する視聴者ではないのだろうが、今後もできる限りぼちぼちみてみようと思う。青鬼は「出てくるやろなあたぶん」と思ってたが、出てきたら出てきたでうれしかった。片桐仁さんはどうなるだろう。やっぱり片桐仁さんも前作のソニンさんみたく最後はエンジンになるのだろうか。元気でいてほしい(*1)
*1 ラーメン食べながら「ノビチャッタヨー ヤッパリ ヨコハマショショチョウッテ タイヘンダナア………」とか言ってほしい。意味わからんが。