【雑記】【読書】「待つ」ことへの憧憬
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昨年末、JR東海シンデレラエキスプレスのCMを論考するバズり記事注1)が私の元に回ってきました。
そのCMは私が小学生くらいの頃年末になると流れていたCMで、山下達郎の「クリスマスイブ」をBGMに、最終新幹線、通称「シンデレラエキスプレス」を舞台とした恋人たちの再会を描いた物語です。そのCMはシリーズ化しており数年間ヒロインを変え作られ続けました。 私はこのCMが好きで、今でも年に一度くらいはYouTubeを開きそのシリーズを見ています。 このCMを見ると懐かしさとともに、なんとも言えない感情が沸いてきます。
ですので上記のネット記事はすぐさま読みました。
論考の対象になったCMは牧瀬里穂バージョンで、恋人とのクリスマスでの再会に胸を膨らませるヒロインが新幹線の到着時刻に間に合うよう彼氏が出てくるであろう改札口へと急いで向かうシーンを描いたものです。 このネット記事では、2人はそもそも翌日に会う約束をしていたにも拘らず、その日を待ちきれなくなった牧瀬里穂が彼の到着の時に会おうと思い立ち慌てて改札口に向かったのだろうと、物語の背景が緻密かつ強引に考察されていきます。
記事を読んだ後に気が付いたのですが、この記事の作者はpatoというライターさんで、信じがたい取材方法と文章力で圧巻の長文記事を書く方です。私はこの方の記事を何本か読んでおり、この方ならこの多くの方の共感を得たバズり記事を書くだろうと納得しました。注2) ところで、待つということといえば、鷲田清一が『「待つ」ということ』(角川選書,2006年)という本を書いています。鷲田は、「待つことが出来ない社会になった」と提起し、テクノロジーの発達により即時的なレスポンスが可能になった現代社会を見つめ直します。 1章のタイトルは、「焦れ」。そこに次のような一節があります。
じっとしていられない。何かをして時間を埋めないと、間がもたない。ただ待つだけという空白の時間が怖い。でも待つしかない。相手のいることだから。そこで想像力がその空白を埋めにかかる。というか、辛抱しきれないで蠢きだす。想像はどんどん膨らみ、そのたびごとに必死で抑えられ……ということが続く。ぱんぱんに張りつめたとき、その限界のところで、気がつけばひとはポストの前に、いや、もっと走って恋人の家の前に、佇んでいる。思いつめて、呆然と、立ち尽くしている。
待ちきれないというのは、そういうことだ。そういう濃い時間、煮えくり返った時間が、携帯電話とともに消え失せる。待ちきれなくなる前に指が動くのだ。(p.13)
このJR東海のCMは、牧瀬里穂が恋人との再会を待ちに待ち、待ちきれないという、焦らされた思いを爆発させた感情を絶妙に表現したもので、まさに鷲田がいう「焦れ」を象徴しているように思われます。
鷲田は、まえがきでこう語ります。
意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ、じぶんを超えたものにつきしたがうという心根をいつか喪ったのだろうか。時に満ちる、機が熟すのを待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか……。(p.10)
さて、今回のpatoの記事(2019年)のバズり具合は、鷲田の論考(2006年)を重ね合わせると、私たちは「待つ」ことを喪失する段階を過ぎ、喪失したものへの憧れを抱き始めるという段階になったことの一つの表れなのではないでしょうか。そして私が抱いた牧瀬里穂の初々しさを懐かしむ思いとともに湧き上がった何とも言えない感情とは、もう日常生活では起こりがたい「待つ」ということへの憧憬の念だったのかもしれません。 注1)バズる 短期間でSNS等で出回り話題になること