【雑記】【社会科】アイヌの子と自由の相互承認
2020/03/29
https://gyazo.com/8e009fd4f0ee1cc3ee8f54ffc574e200
早朝の阿寒湖を一人ぼーっと眺め,アイヌの漁を想像していた(2019年8月)
アイヌの子の記事を目にした.(NHK 北海道 NEWS WEB 2020年03月27日 19時13分)
https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20200327/7000019547.html
世界各地で国家間での戦争や民族間紛争などを毎日起きている.
大学時代,ある海外の方が「いつか地球が一つになって混ざり合って,いつか国家や民族の問題がなくなるといい」と言っていた.その時は,「なるほどなあ」と純粋な青年は思った.
でも,お互いのことを尊重し,認め合う世の中になればなるほど,分かれ小さくなっていくのだね.ただ,「自由の相互承認」がされるということが,先の方が描いた混ざり合った地球なのかもしれない.
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【マオリ語でマオリの歴史を語るということ】
アイヌ語を後世に伝え、残すためにどうすればいいか。
織田さんは、ムルパラの部族学校を訪れました。
80人が通う学校での授業の様子に驚かされました。
ムルパラの部族は、人口およそ3500とマオリの中では非常に小さなグループです。
それでも、生徒たちは、みずからの部族の歴史や語り継がれてきた物語を通して、マオリ語を学んでいたのです。
カリキュラムや教材は、先生たちが手作りしたものでした。
マオリの子どもたちは、みずからの民族の歴史をすらすらとマオリ語で話して見せます。
10歳の子どもでも自分の祖先の名前を10代まで遡って話すことができるのです。
織田さんは、マオリ語を話すこと、マオリの歴史を受け継ぐことの大切さを、子どもたちは理解していると感じました。
織田さんは、部族学校を設立したペム・バード校長に、学校を設立した理由について尋ねました。
バードさんは、幼少期からの過去を語ってくれました。
「私たちの親の世代は、学校でマオリ語を話すと、耳をつねられたり、たたかれたりしました。ですから私たちを育てるときに、同じ苦しみを味わって欲しくないと、マオリ語を教えようとしませんでした」とバードさんは話します。
背景には、19世紀、イギリスによる植民地政策がありました。
マオリの子どもたちは「原住民学校」で英語での教育を強いられました。
さらに第2次世界大戦以降、マオリの人たちが都市に住むようになり、英語中心の都市生活の中でマオリ語を話す人が急激に減っていきました。
1960年代には、マオリ語は消滅の危機に瀕していました。
しかし、1970年代、マオリの人たちによって、マオリ語を取り戻そうとする署名活動などが国内で盛んに行われるようになりました。
1980年代には、マオリの人たちがみずからの手でマオリ語で教える学校をつくり、マオリ語復興の土台になりました。
今では、マオリ語でほとんどの授業を行う学校の数は、国内で114校に上ります。
バードさんもみずからの部族のことばを失いたくないと、学校を設立しました。
部族の人数は決して多くはありませんが、家族や親戚を中心にマオリ語を教える人材を探し、オリジナルの教材をつくりました。
「私たちは多くのものを失いましたが、マオリ語が話されるためには努力が必要なのです。自分を強く信じて、自分の判断を信じなさい。私たちはいつでもあなたたちの味方だ」とバードさんは織田さんに伝えました。
アイヌと同じく、言語の消滅という危機を乗り越えたバードさんの言葉に織田さんは、背中を押されました。
織田さんは、「マオリとアイヌは同じような歴史をたどっている。学校設立のハードルは高いと思うけど、バードさんやマオリの人たちもアイヌの学校の設立を応援してくれている。私ももっと勉強して、アイヌの歴史を、アイヌの言葉を子どもたちに教えたい」と話し、来月、札幌の大学に進学してアイヌ語を専門的に学ぶことにしています。
来月、オープンするウポポイでは展示物の紹介などでアイヌ語が優先的に使われるなど、明るい動きも出てきています。
アイヌ文化やアイヌ語をどう後世に伝えていくか、私たちひとりひとりが考えるきっかけになればいいと思いました。
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https://gyazo.com/9a23152f28e14792fd2b87397905d919
銀のしずく ふるふるまわりに
金のしずく ふるふるまわりに
#社会科 #雑記 #主権者教育