タスクの定義
語源
ざっくりまとめますと、task(タスク)には、語源から義務や課されるものというニュアンスがあるように思われます。
コンピュータ用語のほうもジョブを実行するためにコンピュータが行う作業をタスクとしており、課されたもの感があります。
タスクという言葉だと、牛乳を買うぐらいの軽い行為には少し重い感じがします。
rashita.iconタスクという表現は、「牛乳を買う」には重過ぎるという感覚は同意です。
一方で、それをタスクと表現するときに、どんなことが言えるのか、という視点は考察の出発点にはなりそうです。つまりそこに義務や「課されるもの」性があるとしたら、それは何か、と考えていく。
これは「自己啓発」が日常に入り込んでいる、という観点と呼応する。
たとえば、『日常に侵入する自己啓発: 生き方・手帳術・片づけ』など。
つまり、語源は語源として、私たちが日常的にその言葉を使っているとしたら、そこにある感覚を分析していく、という方向。
あるいは、タスクという言葉から日本語の「やること」に変身する方向で、より包括的な(つまり軽い対象を含むもの)として論じることもできそうです。
maro_draft.icon課すというのが、他者や環境からと自発的なものとあり、総じて自身に行動を約束したというようなところで考えると、牛乳を買うというのも含まれてくる感じ。ただ言葉が重いのは同意です。
rashita.icon「牛乳を買う」(という文字列)それ自身は一つの行為の表現に過ぎない。
一方で、「あっ、牛乳を買わなきゃ」となったとき、それはタスク性を帯びる。
あるいは、それを何かしらのリストに書き込み、自分自身にその実行を促そうと意図するとき、それはタスク性を帯びる。
ここでのタスク性は、おそらく「やること」と「やるべきこと」の差異のようなもの。
maro_draft.icon「やりたいこと」「やるべきこと」のように何らか自らの行動の範疇に引き込んでくる時にタスク性を帯びるとすると、感情や心といった部分があるのかな。一方行動とはいっても他人がやればいいと思っているものにはタスク性を帯びなさそう。責任や注意が及ぶかどうかというところかな。
習慣のようなものは、日常の小さな違いを無視して判断を省力化しているのでタスク性は帯びていなさそう。
あえてそれをタスクとして可視化することで時間というリソースを可視化するという手法はここから生まれたのかも。
rashita.icon毎週牛乳をコンビニで帰っている人が、その週も牛乳をカゴに入れるとき、その行為はタスクではない(タスク性は帯びていない)と、まずは言えるでしょう。絶対的な観察者(第三者のようなもの)から見たら、それはタスク的に見えるかもしれませんが、当人にとってはそうではない。でも、普段とは違う周期で牛乳を買いに行ったり、あるいは普段買い物をしないお父さんが牛乳を買いに出たりするときには、当人にとってその行為にタスク性が帯びはじめる。でもって、タスク管理とは、このようなタスク性を帯びた行動をどのようにアレンジメントするのか、という話だと言えるかもしれません。
それがさらに高度になると、「タスク性を帯びた行動」の発生や抑制に目を向ける段階がやってくる、という段階的なフレームが描けるかも。
rashita.iconたぶん、この点がタスク管理について言及する上で、いちばんベーシックな話になってくる気がする。
情報の分類で言えば、まず「行為・行動」があり、それらのうちのいくつかがタスクになる(タスク性を帯びたものが、タスクとして認識される)。
つまり、タスクは先駆的に存在するのではない。何かの行動がタスクになる。意図と認識を持って。
だから、rashita.iconの視点では無自覚・非意図のタスク管理はありえない。何をタスクにして、何をタスクにしないのかの「判断」がそこには絶対に必要だから。
いや、違うな。
私たちの脳は、自然に何かを「やること」や「そうでないこと」と判断している(そうでなければ日常生活は送れない)。
そういう無意識の判断を、意識的に行って(ちょっとでもうまくやれるようにしよう)というのがタスク管理。
だから、無意識なものは上の定義の感覚からするとタスク管理とは呼べない。
タスク放牧、とか、何かそういう「意図的な非操作」はありえるが、無意識での放置は異なる。
rashita.iconタスクにまつわる周辺語彙として
タスク性
「やること」「やりたいこと」「やるべきこと」
ぷーあるちゃ.icon「気になること」も加えたい
行為(行動)・習慣