ポストGTDの時代(倉下)
本稿ではポストGTDについて検討する。先回りしておくが、ポストGTDについて検討することは、ポストモダンな視点からタスク管理を考えることでもある。どういういことだろうか。それをいまから検討していく。
=== GTDについて
まずはGTDから入ろう。
GTDは、生産性向上コンサルタントのデビッド・アレンが提唱するタスク管理手法である。「Getting Things Done」の頭文字を取った3文字で「ジーティーディー」と呼ばれている。このGTDは、タスク管理といっても、やや情報整理に寄った性質を持つ。頭の中にある「気になること」をすべて棚卸しし、それらに一つひとつ注意を向け、どんな行動が必要なのかを具体的に考えて、それをリストにする。そうしたリストが完璧に整備されていれば、私たちは実行時に悩む必要がなくなる。リストを見えれば、しかるべき行動はそこに乗っているからだ。あとはそこから選んで行動すればいい。そのような環境を整えることで、私たちは「水のような心」に至れるとアレンは解く。私たちのパフォーマンスが最大限に発揮される状態──ミハイ・チクセントミハイがフローと呼んだそれに極めて近い状態──に至ることができる。これがGTDの骨子となるコンセプトである。
そのGTDには、いくつものパーツとフレームワークが含まれている。その中には、タスク管理界隈(学会、ではない)で古くから提唱されているものも少なくない。ある意味で、デビッド・アレンの功績とは、そうしたさまざまなパーツを組み合わせ、一つの「システム」を組み上げた点にあると言えるのかもしれない。まったくゼロからのクリエーションでなくても、そのようなインテグレーション(あるいはアグリゲーション)は重要な功績だし、むしろ個々がバラバラな状態では見向きもされなかったような小さな技術も含めて「システム」化したことは、より大きな功績とも考えられる。
このGTDは、日本でも大ブームとなった。ライフハックブームとも重なり、「生産性向上」に興味を持つ人は、ほとんど誰しもがこの手法をかじったといってもおそらく過言ではない。私は体験していないが、梅棹忠夫が『知的生産の技術』によって「情報カード」をブームにしたのと似た現象であっただろう。さまざまなブログがGTDについて言及し、さまざまなタスク管理ツールがGTDの思想を憑依させた。一時期の私たちの身の回りにはGTDという空気が溢れていたとも言える。タスク管理 = GTDと認識している人すらいるだろう。
私たちが今からサヨナラを告げるのが、このGTDである。一大ブームを巻き起こし、私たちを心を鷲掴みにしたGTDにサヨラナを告げるのである。
別段GTDが無用になったわけではない。むしろ、無用になどなりようもないのがGTDである。どういうことだろうか。
=== GTDの普遍性
GTDは、"自然な"思考法をベースに持つ。代表例が「ナチュラル・プランニング」だろう。以下は『全面改訂版 はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』にあるナチュラル・プランニングの説明の冒頭部分である。
何かを達成したいとき、もっとも効率的かつ創造的に問題解決への計画を立てられるのが誰かご存知だろうか。それはあなたもよく知っている人物……そう、あなたの脳である。
示唆されている点は明確だろう。脳の「自然な」思考を使えば、物事の計画は見事にうまくいく。アレンはそのように話を運び、そうした思考法のステップを以下の5つに分解している。
1 目的と価値観を見極める。
2 結果をイメージする
3 ブレインストーミングをする。
4 思考を整理する
5 次にとるべき行動を判断する。
こうしたステップを行うことが脳にとって「ナチュラル」だとアレンは言う。逆にこれ以外のステップは「アンナチュラル」であることも言及されている。GTDのコアである「水のような心」も、こうした脳の「ナチュラル」な力を発揮させようというコンセプトであって、余計な添加物を付与しようというものではない。この点が、GTDが素晴らしく思える要素でもある。
しかしながら、いくつか疑問はある。まず第一に、上記で示されたステップが本当に脳にとって「ナチュラル」なものなのかどうか。第二に、そうしたステップを踏むことが、"もっとも効率的かつ創造的に問題解決への計画を立てる"方法であるのかどうか。これはいささか意地悪な疑問のように思えて、きわめてクリティカルな要素だと言えるだろう。
が、その検討はここでは割愛する。上記のような思考のステップは、言われてみると、たしかに「脳がそうしている」かのように感じられる、という点が重要だ。GTDは、ナチュラルな思考をうまく発揮させよう、という試みであるかのように感じられる。
よって、GTDが普遍的に感じられるのは自然なことだ。しかしそれはGTDが普遍的だからではない。GTDが採用している思考法が普遍的であるからだ。脳はGTDを経由しなくても、上記のような思考のステップを「自然に」踏んでいるとアレンは言う。だから、そのつもりで探せば、 GTDっぽいものはいくらでも見つかる。なぜなら、それが脳の「自然な」思考法だからである。
GTD、ひいてはタスク管理と呼ばれる行為全般は、「自然に」やっているこうした思考のステップを意識的に(あるいは強調的に)行う活動なのである。
=== ナチュラルさの限界
では、その「自然な思考」はすべてを解決してくれるのだろうか。ここで新しい人間観を参照する必要が出てくる。
2020年頃からビジネス書でもよく言及されるようになった「二重過程理論」という人間の思考のモデルがある。そのモデルによれば、人は二つの思考プロセスを持つ。一つは、直感的で即時的なプロセス。もう一つは、論理的で遅延的なプロセス。この二つが協力したり抑制したりすることで、思考が産出されている、という考え方である。
では、「自然な思考」は二重過程理論では、どちらのプロセスに分類されるだろうか。もし私が何かしらの行為を瞬時に判断して実行にうつしているならば、それは前者のプロセス(システム1と呼ばれる)であろう。GTDではそのプロセスを1〜5の5ステップに分類しているが、脳はそれらを一瞬で終えてしまう。本当に驚くべき器官である。頼りにしたくなる気持ちも分かる。
しかしながら、そうしたシステム1のプロセスは、いろいろ不備が多いことが報告されている。苦手なタイプの情報処理があるわけだ。そうした中でも、タスク管理の文脈において重要になるのが「新しい事態」への対応である。
システム1が恐ろしく素早く情報処理を行えるのは、それがパターン処理だからだ。類似の事例からそれを特徴づける要素を抜き出し、一つの型(パターン)を作る。それが確立されたら、以降はその型に情報を当てはめるだけで、瞬時に答えが出せるようになる。言い換えれば、自分が経験してきたことを類型によってまとめるのがシステム1の得意技なのである。
逆に言えば、システム1のそうした情報処理が十分に効果的だと言えるようになるには、場数を踏む必要がある。さらに脳がそうした情報を定着化させるための時間も必要である。よって、真新しい事態にはシステム1は適切な答えを出せる保証はない。にも関わらず、システム1は無意識で即時的な反応なので、うっかり答えを出してしまう。それが、さまざまな齟齬や不都合を引き起こすわけだ(その答えはものすごくもっともらしく感じられる)。
よって、システム1の思考プロセスだけでは、すべての事態にうまく対処できるわけではない。デイビッド・アレンも、『全面改訂版 はじめてのGTD ストレスフリーの整理術』の中で以下のように書いている。
多くのプロジェクトはこのモデルを当てはめることによって、より生産的に進めていけるようになる。
この言説はおそらく正しいのだろう。しかし、この「多くのプロジェクト」に当てはまらないものはどうしたらいいのだろうか。たとえばその場合でも、「やや生産的」に進められるのだろうか、それともまったく機能不全を起こすのだろうか。それについての検討は、残念ながらアレンは行っていない。よって、私たちがその議論を引き継ぐ必要がある。
(2021/11/23ここまで)