9890_世界がぜんたい幸福に(1)木を見て森を見ず
宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」に、『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない』という1文があります。東洋思想にも「全体は部分を表し、部分は全体を表す」という言葉があるそうです。
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「世界ぜんたいの幸福」と「個人の幸福」
近代科学の実証と求道者たちの実験とわれらの直観の一致に於て論じたい
世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない
「世界がぜんたい幸福」って何だろう... 。
宮沢賢治に詳しい友人、当麻さんに訊ねると、こんなふうに例えてくれました。 例えば10人のグループで、『みんなで幸せになろう!』とする計画を立てたとしよう。その後、自分は幸せになっても、10人のうち9人しか幸せになれなければ、計画は90%しか成功しなかったのだ。自分が幸せとは言えない
「部分」と「全体」
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建築の設計では「部分」と「全体」を、常に意識しています。
例えば住まいという「全体」は、LDKや寝室などの各部屋を、
「部分」として、成り立っています。
また各部屋、例えばLDKを「全体」と見たとき、
それを成り立たせているのは、壁、床、窓、家具などの「部分」です。
住まいという「全体」を良くするためには、
その「部分」である、各部屋が良くなくてはならない。
そして、その各部屋を良くするためには、
壁、床、窓、家具などが良くなくてはならない。
部分は、そのまま全体の縮図なのです。
「神は細部に宿る(God is in the details)」とは、
「Less is more(より少ないことは、より豊かなこと)」も、彼の言葉です。
「木を見て森を見ず」
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しばらく湿原の周囲を歩いていると、
霧が上がり、湿原の囲む森全体が見えてきました。
ふと、「木を見て森を見ず」という戒めを思い浮かべました。
「木」を自分に、「森」を社会全体に例えてみました。
1本の「木」である私は、私のことしか考えられず、
「森」全体のことにまで考えが至らない。
私の考える「正義」や「正しいということ」というのは、
他の人たちとは違うのかもしれない。
なので「正義」「正しいということ」に固執せずに、
できるだけ周りの人の意見や、違う意見をとり入れ調和していくこと。
ときおり振り返ってみて、
そんな「森」を俯瞰してみることが、大切なのかもしれません。
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