9864_『雨ニモマケズ』は、賢治の「書」である
「雨ニモマケズ」は愛用の手帳に、メモのように書き留められました。「11.3.」の書き込み、書かれたのは昭和6年(1931年)11月3日頃なのでしょう。賢治35才、旅たつ2年ほど前です。『そういう私だ』と、賢治は言っているのではなく、『サウイフモノニ ワタシハナリタイ』と願う、賢治が心の奥底から絞り出した言葉に思えるのです。
https://gyazo.com/ac380f5c0ecfdad915ca532b22963b4c
賢治の黒い手帳は他にも数冊ありますが、「雨ニモマケズ」が書かれたこの手帳は、東京で病に倒れ花巻の実家に戻り、床に伏せる日が続く頃に使用していたものです。当麻さんから、見せてもらったのは、この手帳の復刻版です。人生の意味を読み取りたいのです( 2017.11.03) hr.icon
私が「雨ニモマケズ」を初めて知ったのは、国語の教科書でした。
「強くたくましく生きる」お手本のように書かれていたので、
賢治はきっと、強くたくましい人だと思いました。
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しかし、それとは反対に、床に伏せる日が続く中で書かれた、
賢治が自分自身に言い聞かせるために、書いたものだと最近知りました。
https://gyazo.com/99c041d744f973efdd78d794cdbde5d2
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ怒ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
https://gyazo.com/9e32013dba8936c158aba502891dda5a
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
イツモシヅカニワラッテヰル
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
https://gyazo.com/0c761be8e066073ea549a90167c7d81e
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
https://gyazo.com/4072f21068679e386516ab2543074ca4
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
https://gyazo.com/d6ca8cf977cce1ef151ad8e352b82c2d
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
https://gyazo.com/15dfee203196e957cad332631d0b03c1
また、この手帳には、中国のお寺のような建物や、
素朴な小さな家のスケッチもありました。
『小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ』の小屋とは、
親が建てた高台の別荘(後に移築された賢治先生の家)ではなく、
こんな小屋だったのでしょうか... 。
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また、何かの理由で、賢治自身が破ったページもあります。
生前、この手帳の存在は、家族でさえ知らなかったそうです。
そんなの手帳の1ページを、それでも破ったのは、
どんなことが書かれていたのでしょうか... 。
https://gyazo.com/50d31b126830c373c21c54e20299dd6a
「雨ニモマケズ」は、朗々と自信たっぷりに読み上げる詩ではなく、
ときにはかみしめながら、また声には出さずにそっと、
自分の心に語り掛ける詩だと思います。
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また一方で、いつまでも続けて、進んでいくことをやめないこと、
褒められなくても、行(おこな)っていくことを決心した、
「詩」というより「書」であるとも感じています。
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賢治が『こうありたい』とやり続けたこと、しかし、
『できあがっていない』こと、未完成であったこと。
けれども、たとえ自分が目標に到達できなくても、
自分が信じたことを続けてゆくことが、大切だということ。
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賢治が生まれた1896年は、明治三陸地震が起きた年でした。
賢治が旅たった1933年は、昭和三陸地震が起きた年でした。
2011年の東日本大震災後の後、『雨ニモマケズ』は、
復興へ向かう人々の心の支えとなりました。
兼さんの朗読です。
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