反出生主義は正しいのか
反出生主義とは、子供を産まないことを良い事とする主義。
大まかな理由としては
子供を産むと、不幸になる可能性も幸福になる可能性も両方ある
子供を産まなくても子供は不幸にならないが、子供を生むと上記のことがおきる
子供を産まなければ子供が不幸になることはないから、良いことだ
自分の子供が生まれたあと不幸になるか幸福になるかわからないのに子供を生むのは悪だ
よって、不幸になる子供の数を減らすためにすべて人間は子供を産まないべき
という主張。最後の一行を含むか含まないかは人によって違う。
つまり「意識のない存在(生まれてくる前の生命の概念)ものが幸福を得られない」より「意識がある存在が不幸に感じないこと」のほうを優先すべき、という考え方。
一見完璧に思える。が、直感で違和感を感じた(そしてその違和感は往々にして当たることが多い)ため、思考をしてみた。
よくある間違った反例
幸せになるはずの子供が生まれないのは可愛そう
間違い。幸せになるはずの子供のために出産をすると、同時に不幸になる子供が生まれる確率も発生する。誰かの幸福のために誰かの不幸が発生してしまうのならば、最初から存在しなければ不幸も幸福もない(意識がないため)。
個人の考え方なので全人類に当てはめる必要がない
間違い。この理論はすべての人類の子供に当てはまるため、反例にならない。
不幸になるとは限らない
間違い。不幸になるとは限らないが、同時に不幸になる可能性も生まれる。
種としての人間は子孫を残すことが良いことなので、不幸になる子供がいたとしても子供を生むべき。
間違い。種として存続することは、人類の目的でもなければ今の人々の目的でもない。たまたま原子のスープから自身を複製できる生命体が生まれて、種として存続する本能を持った生き物だけが種として存続している。目的ではなく結果論。
文明が生まれ、自分で思考できるようになった人類は、個人や社会の幸福を種の存続より優先している。現に、人権が生まれ、優勢思想はなくなり、自由恋愛が可能になった。
→個人の幸せを追求する上で種の存続は二の次。
不幸な人間は死んだほうがいいのか?
間違い。生まれないことと、死への恐怖心を持った人が死ぬのは別の話。生まれないことは不幸ではないが、生きている人間が死ぬことは不幸なこと、と考える。
これらを踏まえた上で、自分の中で一人で反例を考え、その後友人と議論で思想ピンポンをした。そこで出た反例が以下。
「全子供の最大幸福」ではなく「全人類の最大幸福」を考える。と、子供を産まないと、不幸になる子供は発生しない。が、人類の数が減るため、文明の発展は遅くなり、衰退しする。
労働力はいなくなるため、自分や自分より上の世代、また反出生主義に反対して生まれた子どもたちが将来的に労働できない年齢になったときに餓死・病死する。(機械による医療や食料生産ができれば別だが。)
つまり、不幸になる子供は減るが、不幸になる人間は総じて増える、という考え方。
ただ「自分たちの文明の将来のために子供を生むのが正しいのか」という問題が新たに発生する。
子供が不幸になることは悪いことではない、という考え方。
人生に不幸・幸福というレッテルを一方的につけるのではなく、生まれた子供が生涯総じて受けた幸福と不幸の総和を計算して、その結果不幸か幸福かを考えるべき、という案。
その場合「生まれてきて生を受けたことが大きい幸福のため、その後多少不幸な目にあっても総じて幸福なことに代わりはない」という理論に展開ができる。
ただ、この理論では「幸福と不幸で足し算引き算が可能か?」という問題が新たに発生する。
不幸の定義が主観ではなく客観で定義できるならば、すべての人間は生を受けているので幸福である。という考え方。
この場合、不幸なことも幸福なことも人生経験であり、客観的に見れば幸福である、と言える。そもそも幸福と不幸の感じ方が人によって違うため、どんなに不幸を減らしても不幸に感じる人もいれば、不幸な目にあっても幸福だと感じる人もいる。そこで絶対的な幸福・不幸の定義をして、かつ、生まれてきて生を実感することを幸福だと定義すれば、すべての人間は生まれつき幸福であると言える。
ただ「幸福に客観や絶対的な評価ができるのか」という問題が発生する。
そもそも子供が生まれて不幸になるかどうかは結果論なため、結果的に不幸になる子供がいても子供が生まれて幸福に育ってくれるならいいのではないか。
理論を根本的に覆すが、これが直感で感じた。生まれて幸福になった人間は生まれなければ発生しなかったわけで、その中で結果論で不幸になる人間の議論をするのが間違い。
生まれていない人間に思考はできないし産まないことによる苦痛を感じることはできないが、生まれて幸福になった人間が生まれてない人間の代弁することもできる。
人の脳に意識があるかどうかは哲学の問だが、脳に意識があると同時に脳を観測する他の人間にもその人に対する価値観と仮想的な人格が生まれる(シミュレーションできる)と考える。生まれなかったはずの子供には意識がないが、それを観測する人間は生まれたはずの子供のことを想像し、産まない選択をした苦痛を感じることもできるし、そこに無いはずの生命に後ろめたさを感じることもできる。この観測した人間の中にある「想像」が生まれない子供の実質的な意識と言えるのではないか?
至って見も蓋もないが、人間に幸福も不幸の概念もなく、意識もなく、そこにあるのはニューロンの物理的な発火と、それによって起こる複雑化した反射行動から見えるあたかも意志のあるように動くモノ、という考え方。
個人的に嫌い。
P.S. 反出生主義に関する完全な解を見つけたが、書くのがめんどくさいため気が向いたら書く