分岐郵便局
分岐郵便局
月曜の朝、ポストに薄い封筒が入っていた。切手には、見慣れない消印――「もしも区二丁目」。宛名は俺、差出人も俺。封を切ると、白い紙にボールペンの字で一行だけ。
昼休みにコーヒーをこぼすな。右手首が濡れると、夜の電話に出られない。
ふざけた占いかと思って無視した。けれど正午、キーボードの手前に置いた紙コップが、入力の合間にちょっと引っかかったケーブルに弾かれ、見事に転がった。右手首に温いしみ。笑って拭いたが、その夜、母からの電話に出損ねた。湯船につけた手首がしみて、バスルームから飛び出すのに数秒かかっただけだ。数秒の遅れで、留守電がピッという音を吐き、静かになった。
翌週も封筒が来た。今度は少し長めだ。
退勤後の信号、青に変わったら走るな。代わりに、横のベーカリーに寄れ。チョココロネ。
忠告に従った。走らなかった。ベーカリーでチョココロネを買った。外に出ると、会社の同期が信号の先で派手に転んでいた。彼は新品のスーツを破ったと嘆き、俺のチョココロネを見て笑った。そこから飲みに行った。彼とはそれまで大して話したこともなかったのに、気づけば深夜まで膝を突き合わせ、転職の噂まで掘り出していた。翌朝、彼は俺を別部署の面談に紹介してくれた。
三通目の手紙で、俺は観念した。差出人は未来の俺か、世界をデバッグしている誰かだ。いずれにせよ、俺より俺の周辺の行動をよく知っている。
四通目の最後に「P.S. ポストの裏に行け」とある。マンションの郵便受けの裏なんて、掃除用具と蜘蛛の巣しかない。半信半疑で裏口から回ると、駐輪場の隅――コンクリートの継ぎ目に薄い切れ目があり、指で押すと、金属と紙の匂いがする細い扉が開いた。
中は狭い。鼠色のカウンターに、古い番号札を吐き出す機械。壁には「取込」「リベース」「マージ」と書かれた三つの窓口。窓口の奥は見えない。店員は一人、黒いベストを着た小柄な女の人で、制服の胸元に「枝番管理」と縫い付けてある。
「初めてのお客さまですね?」
「ここは……」
「分岐郵便局。もしもの枝から届いた手紙を取り扱います。正式名称は『仮設因果関係郵便取扱所』。発行元は、あなたの別の履歴。」
番号札を引くと、三桁の数字ではなく、短いハッシュのような文字列が印字された。「d4a1b7」。女の人はそれを見ると頷き、茶色い封筒を差し出した。封に押された丸い印に、見覚えのある筆跡で「俺」。中の紙には丁寧な箇条書き。
新しい部署の面談は、笑うより質問を。
チョココロネは半分残すこと。
そして、二週間後、母に会いに行け。
「手紙はどこから?」と聞くと、女の人は窓口のブラインドを指で少し持ち上げた。奥には、透明なパイプに流れる無数の白い紙。紙は光っては消え、小さな音でカチと鳴る度に経路を切り替えている。
「可能だった履歴からの差出です。差出人はいつも、こちらのあなた。どの枝も、あなたです。どれも本当で、どれも架空です」
「料金は?」
「代金は“決め”です。ひとつ決めるたび、別のどこかが薄くなる。厚みは有限。薄くするかどうかは、お客さま次第」
それから俺は、毎週来る手紙に従った。ほとんどが些細な注意で、しかし不思議な密度で生活を変えた。「エレベーターで二階まで行かない」「最初に挨拶する」「帰り際の電車は一本遅らせる」。ひとつひとつは小石のようだが、やがて河の流れを曲げる。面談はうまくいき、部署が変わった。同期とは親友になった。夜には、母に長いメッセージを送る習慣ができた。返信はすぐに来たり、数日経ってからだったり。あの留守電の沈黙よりはよほどましだ。
秋、手紙の調子が変わった。「今日、郵便局で相談」とだけ書いてある。分岐郵便局へ行くと、女の人はいつものベストをきゅっと正し、「マージ窓口へ」と手招きした。
窓口には、木製の箱。ふたを開けると、中には二通の封筒。ひとつは薄く、もうひとつは厚い。ラベルに「母へ」と「自分へ」。
「どちらか一通しか送れません」と女の人。
「どういうことです?」
「枝番の厚みが限界です。あなたは多くを『決め』てきた。そろそろ、どちらかの履歴を濃くして、片方を薄くする必要がある。どちらも正しくて、どちらも少し間違っている」
薄い封筒「母へ」を手に取ると、中にはまだ文面がない。「差出人の現在が、本文を決めます」と小さく鉛筆で書かれている。厚い封筒「自分へ」はずっしり重く、紙の匂いが濃い。宛名は俺。封の裏に小さな朱印。「最後の助言」。
「二通同時は?」
「すると、どちらも届かない。分岐は親切だけど、欲張りには厳しい」
俺は迷い、椅子に座って、女の人が差し出した安っぽいボールペンをくるくる回した。ボールの中でインクが揺れ、俺の決心もぐらぐらした。
母へ何を書くべきだろう。最近、少し会話が浅い。病院のこと、町内会のこと、苗字の古い話。深く潜るのが怖い。薄い封筒で伝えたいことは山ほどあるのに、言葉にすると、途端に逃げていく。
自分へ送る「最後の助言」とは何だ。これまでの手紙がどれだけ俺を救ったとしても、誰かに預けっぱなしの舵取りには限界がある。助言は便利だ。便利は、ときどき人を脆くする。
番号札のディスプレイが小さく点滅した。「d4a1b7」。今決めるか、後にするか。女の人は黙っている。窓口の奥のパイプに流れる紙だけが、軽い音を立てる。
俺は厚い封筒を戻し、薄い封筒にボールペンを走らせた。文は短くなった。
お母さん、来週そっちに行くね。話したいことがある。俺のこと、昔のこと、これからのこと。うまく言えないと思う。たぶん途中で黙る。でも、黙ったままでそばにいるやつになる練習を、いま始めたい。
封をし、窓口に差し出すと、女の人は朱色のスタンプを押した。スタンプには「到達」とあり、インクは少し薄かった。
「いい決めですね」と彼女は言った。
「厚い方は?」
「必要なら、また届きます。あるいは、もう届かないのが正しい場合もあります」
郵便局を出ると、空がやけに高く見えた。現実の雲は分岐しない。風の向きも一つ。けれど人の決めは、薄かったり、厚かったり、たまには破れていたりする。薄い紙の手触りを指先に残したまま、俺はマンションに戻った。
翌日、手紙は来なかった。翌週も来なかった。静かなポストは、ひどく広く見えた。分岐郵便局の扉を開けて確かめるべきかとも思ったが、行かなかった。行かないことも、決めの一つだ。
かわりに、カレンダーに「母」の予定を入れ、電車の時間を二本調べ、駅前の小さな花屋の開店時刻をメモした。職場では、同期から新しいプロジェクトが回ってきた。仕様書の最初の一行に、俺は癖でヘッダを書いた。「前提」。そして、もう一行追加した。「未定」。
週末、母の家のチャイムを押す前、右手首を無意識にさすっている自分に気づき、笑ってしまった。ドアが開く。匂いは昔のまま。畳に沈む足の感覚も、茶の湯気も。会話は途切れ途切れだった。途中で黙り、黙ったまま、母の皺を数えた。沈黙が怖くない瞬間があることを、そのとき初めて知った。
帰り道、ベーカリーでチョココロネを二つ買った。ひとつは半分食べて、半分は紙袋に戻した。もうひとつは、翌朝に回す。習慣は分岐するが、旨いものは旨い。
その夜、机に座ると、真っ白な便箋を出した。宛名は書かない。差出人も書かない。ただ本文に、長いような短いような一行だけを書いた。
これからの助言は、たぶん、ここで考える。
紙を折りたたみ、封筒に入れ、切手は貼らない。ポストにも入れない。机の一番上の引き出しにしまい、引き出しを閉めた音の余韻を、しばらく聴いた。
それから数ヶ月、手紙は一通も来なかった。代わりに、朝の光や、道の水たまりや、誰かのミスの言い方が、少しだけ鮮やかに届くようになった。分岐は見えないが、見えないものに手を振ることはできる。時々、あの郵便局の窓口を思い出して、心の中で番号札を引く。「d4a1b7」。印字された文字列は、相変わらず意味不明だが、なぜか少し誇らしい。
ある雨の木曜、エレベーターの前で、知らない女性が濡れた折り畳み傘をくるくる回していた。俺は声をかけた。「先にどうぞ」。彼女は微笑んだ。扉が閉まる直前、彼女が言った。
「このビル、郵便受けの裏に変な扉があるって聞いたことあります?」
「さあ、どうでしょう。きっと、誰かの想像力が良すぎたんですよ」
嘘ではない。世界は、想像力の分だけ厚くなる。俺は右手首をさすらずに、エレベーターのボタンを押した。静かな機械音が、薄い紙をめくる音によく似ていた。