Drawing without light
simulated photography in videogames
光なきドローイング
ビデオゲームにおける写真のシミュレーション
セス・ギディングス
序文
シャッター音とは? シャッターが動くときの紗幕の音を再生している ゲーム内写真はサウンドファイルを再生する不気味な撮影に
太陽なきヴァーチュアルな世界、暗い部屋、つまりは真のカメラ・オブスキュラから生じた出来事を変換=レンダリングすること 太陽がポッポを照らすことは決してない
ヴァーチャルな写真は凍結した瞬間を捉えているのかもしれない
光のドローイングと自然の鉛筆
カメラ・オブスキュラは画家のものだった・自然が自ら写し取る美術だと思われていた
ヴァーチャルイメージからヴァーチャルカメラへ
ヴァーチャルカメラとはそれが描き出すものと同じ材料、コードによって作り出されている
生物学的な視覚ではなく、カメラ装置そのものの光学が目指されている
かつてCGはフォトリアリズムのために細部をレンダリングすることを目指していたが、近年はそれが反転している
トイ・ストーリーはおもちゃみたいな質感しか得意じゃなかったから
髪の毛が得意になったからモンスターズ・インクが生まれた
初期のCGが持っていた方向性のひとつなのではないかと思われる
ニール・ブロムカンプの短編SF
Flickerのアルバムやスライドショーは、補完や表示のための作法が受け継がれている、写真のままであり続けている
家族写真、記念写真、戦利品としてのダイナミクスがヴァーチャルなイメージの作成には残存している
プレイヤーたちの習慣や情動、意図のうちに存在し、シミュレーションであるから一層リアルである。
ヴァーチャルカメラの差異
それらの差異は、シミュラークル(シミュレーション)へと消失した写真の喪に服すよりも、写真の本性についての再考を要請している。
ゲームでのカメラを介してプレイヤーはその世界を見ると同時に探検している。
PS1のバイオハザードはカメラ固定
性能や開発の問題からだが、映画的なえんす打つに
ポレンバの論文からの引用「プレイヤーたちはカメラのアヴァターとして、ゲーム世界を航海するばかりか、それを撮影するようにもなっているのである」
ジュゲムがカメラを持っていて、それがプレイヤーを写している
しかしジュゲムもプレイしていることになる、二人操作している
カメラ・オブスキュラ̶X線からXboxへ
初めて写真を作った技術、トルボットはその視点を想像してた
不可視な光線、X線、赤外線による撮影が示唆されていた
それは真っ暗な部屋、ゲーム内写真もふくまれるのではないか
ヴァーチャル・ヘリオグラフィ
カメラ 枝分かれしていく 一つの技術が一直線に進むわけではない
2Dのゲーム
以下、二つの見解を導き出す。
1.ゲーム世界の写真は、(カメラも、風景もコードであり、そのある状態のインデックスであるため)カメラ装置と周囲の状況が物質的に分離されていないという点において、現実世界の写真とは異なるものとして理解されなくてはならない。このことはトルボットによる自然の鉛筆、それ自体を描き出す技巧と反響している。
2.ゲーム世界の写真は、写真の系譜学に対するシモンドンの固体化の応用を裏付けている。ここに出現するのは、レンズや銀による光の補足が徐々に完成させられるといった物語ではなく、むしろ商品化した印刷メディアと情報メディアの両方が、写真以後のみならず写真以前にも現前しているという、網目状にもつれあった絡み合いなのだ。
写し絵の箱の時間
赤い服を着た男がラブレターを送ろうとしているところを撮影する、というクエスト
リンクが写真を撮影しようとポストの前にいるときに限って繰り返し、彼は手紙を送ろうとする
世界が待ち構える状態に
サン=ラザール駅裏という作品の、水たまりを飛び越える鉄道員は、二度と同じことをしない。光と写真家と被写体の偶然の出会い、日常生活や歴史の偶発性がもつれあっている。しかし、ビデオゲームにおけるラブレターの投函はつねに起こり、ラブレターを投函する彼の目的や存在は、写真に撮られるためだけけにある。
撮ってフィギュアにできる→3Dスキャン?
結論
光が失われるとしても、写真にとって他の側面となるものがビデオゲームには残存している。瞬間の記録、視点を固定して空間のうちに組織化すること。こうした点においてプレイヤーたちの慣習や使用、効果や情動のうちに、それは(従来の写真と同じように)写真として機能している。
新しい実体(ヴァーチャルカメラのようなメディア)が出現しても、それをリメディエーションや回帰、唯一無二ものであるとも想定すべきではない。新しい変質を見逃してしまうかもしれない。リメディエーションされたものや、断絶ではなく、̶以前からそうであったような̶ 進化や変異として。