自分の「美しい」を探求する
個人開発をする中で、自分が納得するものでないと苦しくなることが判明した。
完璧主義者と簡単に片付けてしまえばそれまでだが、そもそも思想が違うと思いたい。(デザインと完璧主義) 自分がこの資本主義の中で個人開発をするのは、稼ぐためでも不労所得を得るためでも栄光を得るためでもなかったようです。
自分でもよくわからないのですが、自分を納得させる「何か」を作ることをずっと求めてるみたいです。
自分を納得させるにはどうすればいいのか、迷走して迷って迷って迷いまくってるが、とりあえず「美しさ」にヒントがあるかもしれない。自分だけの「美しい」の形を見つけていけば、少なくともその点で納得させれるかもと。
だから見つけていこうと思う。
資料
hr.icon
「美しい」とは、「合理的な出来上がり方をしているものを見たり聴いたりした時に生まれる感動」です。
「合理性が美しさを生み、美しさが感動を呼ぶ」という構成になっています。だから、なんとなく分かるのです。
「美しい」ものは「理にかなっている」ということでしょうか。
「理」と言っても、いろいろ考えられます。たとえば、論理、倫理、条理、道理、物理、事理、義理、心理、生理、摂理、自然の理、天の理、地の理、数理、公理、定理、原理、真理、・・・。
いずれかの理にかなっていれば、それは合理的であり、「美しい」と言えるのかもしれません。
onigiri.w2.iconの「美しい」の感性は、この合理性関連のものが強い
常に理路整然としたアーキテクチャを作る力を求めてる
常にその構造である理由を求めてる
常にパッと見でわかる合理性のような法則の上でできたようなものに美しさを感じたりする
「この構造、設計、コードは一貫性があって美しい...」とか呟いたりする。
そう言う意味では、一貫性も大事なのかも。
システム全体が一つの理で統一されている状態って表現をLLMがしてくれたけど、そうかも。
この美しさをイメージにするなら....
「混ざってない」って感じかなぁ...
ルールの上で、その通りにキッパリと整理されている感じ?
絵の具の色がエリア間で混ざってない感じ。
そんなイメージに1つ美しさを感じるかもしれない。
「Claude Codeの分析」
混ざっている=境界が曖昧、原則が混在している、「なぜそうなのか」の理由が複数ある――それは、あなたにとって理が濁っている状態なんでしょうね。
美しいコードや設計って、関心の分離ができていて、責任が明確で、それぞれが純粋な役割を持っている状態ですよね。
美しい合理性という言葉を、以前ある方に教えていただいたことがあります。合理というものは、理に適っているという意味や、目的に合っていて無駄のないという意味、つまりはシンプルであるともいいます。
シンプルなものは、そこに美しさがある。私たちはそれを美意識と感じることができるということでしょう。これは別のものでは、自然が同じものでしょう。自然はすべて道理に適っています。道理に合わないことはありません。自然は一切の無駄もなく、そこにゴミ一つ出ることはありません。逆に合理的ではないというのは、無駄もあって目的もズレ、道理に外れてゴミも出るということです。つまり何か循環しないものが発生しているということでしょう。
美しいものというのは、地球全体の姿でありそうではないものは地球から外れたことをいうのかもしれません。何が地球や宇宙の理に適っているのかを分かるというのは、地球と共生しその循環の一部としてのお役目を全てに全うしていることが合理ということになります。
自然も宇宙もやはり、法則から外れてない姿で無駄がないのかな
人間もそこに無意識的に向いてるんだろうか?
全ての人間がそこに美しさを感じるわけではなさそうだけど。
onigiri.w2.iconの場合は惹かれてるなぁ
美しい気がする...onigiri.w2.icon
https://scrapbox.io/files/691e01be18c9a88aab76c78c.png
なんかわからんけど、「なんかいい」て思う。
別に、理とか分析できないのだが、「心地よい」気がする。
何か連関がありそう。この画像に何かヒントがある気がする。
「心地よい」っていう感情はすごく大事だと思えてきた。美しいとは重なってないかもだけど。
仮説
onigiri.w2.iconは「美しい」より「心地よい」を求めてる説
話は少しそれますが、人間が心地よくリラックスしている時に出るというα波、これは規則正しいものに触れても出ないんですよ。 1/fゆらぎというね、たとえば風が吹いて葉っぱが擦れ合う音、あるいは川のせせらぎ……そういったものからは、非常にα波が出るんですが。人間は、不規則なものに安らぎを覚える。つまり心のエネルギーとなる感動は、合理主義の中からは非常に生まれにくいんです。健全だといわれているように、毎日の生活が、すべて何時に何をして……と規則正しくなったら、そこに感動はなくなります。人間の心は、合理主義では動かせない。むしろ不合理とか、不規則性の中に感動の本質があるんですね。
なるほどなぁ。確かに合理的を突き詰めていくと、無味乾燥としたものが出来上がりそうだな。
そこに美は感じないかもしれない。全てが合理で敷き詰められてるとなんかしんどいな。心地良くはない。
合理が比較によって見えるから「美しい」って感じたりするのかな?
「調和」っていうのも、何かキーワードになりそうだ。
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