AI小説:「葛藤の行方――横浜の夜に揺れるエスノメソドロジスト」
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レビュー待ちで不安->reject
の状況でまた出してみた。
本編
「俺ぁ、新しい学問を作ろうとしたんだよ」
2025年5月初頭、福岡天神のスタートアップハブ併設バー。
横浜でHCI分野のトップカンファレンス「CHI2025」が行われている。
俺は1年をかけて挑戦し、ポスターセッション「Late Breaking Work」にも落ちた。
大規模言語モデル(LLM)はHCIの新たな可能性を爆発させた。それは過去になされていた研究の復活の可能性も暗示していた。「人工知能」に近づくほど、人間の知性に対して適用される概念に関するHuman-LLM Interactionの分析的研究が重要になる。俺はエスノメソドロジーの方法で、研究者が使う概念とLLMの実際とユーザーのかかわりを分析するプログラムを提示した。
箸にも棒にも掛からなかった。
まあいい。目の前に酒がある。福岡の普通ではないが尋常ではない飲酒量においては普通のようだが、東京人の俺は限界だ。でも飲まねばならぬ。今、日本人を含む世界のスターが横浜で晴れ舞台を演じている。俺にはそれが耐えられなかった。日本国内の学界が限界だったのだ。
「なんかビジネスでもやりませんか」隣の知り合いが言う。
「そんな気分じゃねえ、プロダクト?そりゃ思いつく。だけど俺は研究から離れられないんだ」
「どんな研究をやっていたんです」
「面倒くせえ。これ読んでくれ」論文のarXivプレプリントへのリンクをQRコードで手渡す。そして俺は一瞬眠りに落ちた。
意識が戻ってくる。1時間ほど寝ただろうか。
「この論文、すごいですね。エスノメソドロジーにそんな可能性があったなんて」
「君は誰だ」
「宮崎で哲学をやっている院生です。でも宮崎じゃここまで学べなくて」
「どこでも関係ない。この研究潮流は滅びた。人生をささげないと学べるところはない。これを読むといい」
いくつか論文や書籍のリンクを渡す。イギリスのエスノメソドロジーの最先端だ。
「色々教えてくれませんか」
熱意はいい、だが熱意じゃどうにもならない世界もある。コンピュータサイエンス分野ではレビュワーに当たりはずれがある。そう思っていたら隣の男が口を出してきた。
「お前、本当は横浜にいるべきじゃないのか」
「知らねえよ」
「僕横浜行きます」宮崎の院生が勝手に話を進める。
「今から東京に行くところだ。俺は学問のことはよくわからねえが途中まで連れてってやる」
眠りそうになりながら俺と院生は男の車に入っていった。
意識が戻ってきた。頭が痛い。水を手渡され、イブプロフェンをぶち込む。
「福山のあたりだ」男が言う。「すまない」俺が返す。男は返さない。
隣では日本語の数少ない文献を読んでいるようだ。
「その論文はだな……」俺は頭の奥で鈍く響く痛みを感じながら、口を開く。
「エスノメソドロジーというのは、人間が当たり前のように行っているコミュニケーションの手続きを掘り起こす学問だ。会話分析とか、社会学から派生してな……。でも、この分野に手を出そうとすると、HCI界隈じゃまだまだ珍しがられる。『理論が古い』とか、『定性的すぎる』とかで、なかなか受け入れられないんだよ」
「それに加えてLLMとの相互作用を包括的に捉えるとなると、やれ曖昧だの、実験設定が難しいだの、いろいろ言われそうですね」と院生が言う。
「そうだ。論文を読めば分かると思うが、実はHCIの教科書に書かれている理論やモデルが、大規模言語モデルによって大きく変容してる。そのインパクトは甚大だ。だが、トップカンファレンスの連中には受け入れられなかった。現行の評価基準に合わなかった、ってのが正直なところだろう」
男の運転する車は闇夜を切り裂くように走っていく。外は真っ暗で、何も見えない。たまに街灯が近づいては過ぎ去り、走行音だけが耳元でこだまする。
「それで、横浜に行ってどうするんだ?」と男が前を見ながら聞いてくる。
「……さあな。論文は落ちた。でもおれは、どうしてもあの会場の雰囲気を、肌で感じないと気が済まないんだ。ロビーにいるだけでも、すごい研究者たちが行き交ってるだろうし、ポスターも一般公開くらいはされてるだろう。何かが掴めるかもしれない」
「ふーん。まあお前が勝手にやりゃいい。俺は東京で用事があるから、そこまで連れてってもいいが、あとは自力で行けよ」
後部座席の院生はタブレットを操作しながら、「ロビー展示とかあるなら、僕も見たいです。研究者の反応を直に感じてみたい」と興奮気味に言う。
「お前はどうしたいんだ?」と男が俺に向けて問いかける。
どうしたい、か……。理想を言えば、自分の研究の正当性を認めさせたい。この社会に必要な知見だと、胸を張りたい。でもそんな格好つけられる状況でもない。
「ああ……」俺は呻くように答える。「たぶん何も変わらねえ。だが行くしかないんだ」
福山を過ぎて、サービスエリアで車は止まった。コンビニの光がまぶしく、俺は少し酔いから覚めた気がした。男の運転でここまで来て、そろそろ日が昇りそうな時間帯。
「ついでに朝飯でも買うか」男が低く呟く。俺と院生も車を降り、コーヒーを買う。冷たい風が肺に染みる。
「大学院、忙しいのか?」俺は院生に話しかける。
「はい。授業もあるし、指導教員の手伝いもあるし。……でも本当は、もっと根本的な思索に浸りたいんです。特にLLMが人間の概念操作にどう影響するか、それを哲学的に深く知りたくて」
「まあ、哲学といっても学会に認められるためには、フレームワークがどうとか、成果指標がどうとか、いろいろ気にしなきゃならんだろ」
「そうなんです。でもこの論文読んで、ふと思ったんです。今、誰もが必死でLLMの実用性を確かめようとしている。だけど、道具として利用するばかりじゃ、人間の思考がどのように再構成されているかなんて分からない。そこを追求するのが、エスノメソドロジーにも通じる新たな道かなって」
「そうは言ってもな……。それ、金になるか?」唐突に男が口を出す。
「金……ですか?」院生は戸惑い気味だ。
「研究が生き延びるには、どこかでスポンサーを掴まなきゃならん。今はAIブームだから金が集まるように思えるが、実は厳しい。本当に良い研究は目立たないから潰されやすい。いまどき地味な社会学的アプローチなんざ、投資家が見向きもしない」
「そう、そこが難しいのよ……」俺は苦く笑うしかなかった。
再び車に乗り込む。山陽道を東へ。いつの間にか空は白み始めている。後部座席の院生は画面を見ながら、「この先もう少しで岡山か……」と呟いた。
「調べたんだけど、CHI2025は明日が最終日みたいですね。今日から行っても多分、もう大きなセッションは終わってる。ポスターかインタラクティブセッションの展示が残るくらいでしょう」
「そりゃそうだろうな」俺は頭を指先で叩きながら考える。あの煌びやかな場所に、今の俺が行って何を得られるというのか。ただ、行かないと後悔する。そんな気分だけが俺を突き動かしている。
男はずっと無言でハンドルを握る。ラジオが天気予報を伝えているが、ぼんやりとしか頭に入ってこない。朝焼けが車のフロントガラスを赤く染める。
「俺ぁ、新しい学問を作ろうとしたんだよ」──それは飲み屋で話した通り、本音だ。だけど学問なんて、一朝一夕で成立するわけもない。
俺は助手席で瞼を閉じる。頭の奥でまだアルコールが渦を巻いているが、意識ははっきりしてきた。何をするべきか、答えは見つからないが……。
結局、俺と院生が横浜の会場にたどり着いたのは翌日昼過ぎだった。男は途中の東京で降りていき、無言で去った。わずかに「じゃあな」と呟いただけだ。感謝も言えずじまいだった。
会場入口には、大きく「CHI2025」の文字。華々しい看板が閑散としたロビーを彩っている。最終日とあって人影はまばら。
「今、残ってるセッションは……」と院生がプログラムをチェックする。
「Late Breaking Workのポスター展示は今日の午後で終了、と」
「ああ、俺のポスターは掲示されることもなかったんだよな」
そう思うと、胸が締めつけられる。会場を見渡しても、すでに片付けが始まっている。解体作業している学生ボランティアらしき人たちの姿や、手持ち無沙汰にスマホをいじっている参加者の残りがちらほらと見えるだけだ。
「せっかく来たし、何か議論とか交わせる場はないですかね」院生が不安そうに言う。
「分からん。ロビーにいる研究者に声をかけてみるか? ここでしか会えない大物がいるかもしれない」
俺はそうは言ったものの、どこか気が進まない。結局、自分の研究が認められなかったという敗北感が、どんよりと全身を包んでいるからだ。
ロビーでコーヒーを買い、俺たちは壁際に立って会場内を見渡す。
「あ、あの人! ミネソタ大のデイビス教授じゃないですか? HCIの倫理学や社会学的視点の論考ですごく有名な……」
遠くで話している白髪混じりの背の高い男を見て、院生が目を輝かせる。
「声かけてきます!」
そう言うが早いか、院生は小走りに教授のほうへ向かった。
俺は残ったコーヒーを一気に流し込んで、ロビーの片隅をうろつく。どこかに、俺みたいに何も成果を得られなかった人間がいるかもしれない。そんな変な期待を抱きながら。
が、すれ違う研究者はみな笑顔を浮かべている。英語やフランス語や中国語が飛び交い、ポスターを抱えて満足そうに会話している。皆それぞれ、成果を持ち帰るのだろう。
少し離れたところで、院生がしきりに英語で説明を試みているのが見える。手には俺の論文のプリントアウトだ。
(やめとけ、そんなの読んでくれる余裕はもう誰にもない……)
そう思いつつも、俺は声をかける気力が湧かない。
30分ほど経っただろうか。院生が肩を落として戻ってきた。
「聞いてはくれました。だけど『興味深いね』以上の言葉はなかった。教授は『もうフライトがあるから』って、最後に名刺だけくれましたが……」
「そうか……まあそんなもんだろ」
「でも、あの教授も『エスノメソドロジーの手法は面白いかもしれないが、実験設計をちゃんとやらないと学会で認められないだろう』って言ってました……」
「うん。俺が提出した論文だって、ハリボテに見えたのかもしれない。うんざりするほど聞いてきた言葉だな」
冷たい沈黙が落ちる。会場の奥では次々とブースが畳まれていく。俺たちは邪魔にならないように隅を通り抜けて、ロビーへ向かう。
そして気づけば、会場の外に出ていた。ビル群の合間から陽が少し傾き始めている。
「ここ、どうします? どこかホテルとか取ってますか?」院生が尋ねる。
「そんなもん取ってない。勢いで来たからな」俺は息を吐き出す。
「じゃあ僕はもう少しこの周りを歩いて雰囲気感じてきます。せっかく来たんですから。えっと、連絡先交換してもいいですか?」
「……ああ」
俺は院生と連絡先を交換した。正直、これ以上一緒に行動する理由もないし、院生の方も時間を持て余しているとはいえ、俺が足枷になるだけかもしれない。
「何かあったら連絡します。今後、論文のこととか、エスノメソドロジーの新たな手法とか、いろいろ教えてください!」
院生はまだ情熱を失ってはいない。若さかもしれないし、純粋な好奇心かもしれない。
それから俺は、駅前の雑踏を一人で歩き続けた。
CHIの会場はもう背後だ。国際会議が繰り広げられた場所。誰もが未来を語り、技術を競い合い、刺激を受けて意気揚々と帰路につく。
俺はその逆だ。手ぶらで来て、何の収穫も得られず、ただ敗北感を噛みしめている。酒も抜けきらず、頭痛も去らない。
「何のためにここへ来た?」
心の底からそう思う。東京を経由しても、あの車に乗っても、成果は何一つない。
商業ビルの壁に寄りかかり、スマートフォンでTwitterを開く。タグには「#CHI2025」「#HCI」などの文字が並び、ポジティブな声が渦巻いている。
「素晴らしいセッションだった」「多くのインスピレーションを得た」「今年はLLM祭り!」──そんな投稿ばかり。
俺が提案した分析的フレームワークに関する話題は、どこにも見当たらない。
やめちまうか? こんな研究。
一瞬、脳裏にその文字が浮かぶ。
だが、やめたところで俺には何が残る? ビジネスに転向? スタートアップでも起こす? いや、俺は人間と計算機の相互作用が生み出す妙味を捨てられない。はっきり言って、自分の居場所はもう学会にはないかもしれないが、それでも探求をやめたら、自分が自分でなくなる気がするのだ。
足元を見ると、昨日の車中で飲んだペットボトルの残骸が入ったゴミ袋が思い浮かぶ。あの男、名前も知らないままだった。院生にも、具体的なアドバイスは何もできていない。
ただの酔っぱらいの戯言を、無理に押し付けただけかもしれない。
雑踏を抜けて、少し静かな裏通りに出る。店じまいしそうなカフェがあった。たまらず入り、コーヒーを注文する。カップを手に、カウンター席でぼんやり座る。
「いらっしゃいませ」
店員の声がやけに響く。俺以外に客はいない。
「俺ぁ、新しい学問を作ろうとしたんだよ」
誰に聞かせるでもなく、呟いてみる。だけど、その言葉は自分の中で虚空に溶けていく。
葛藤が胸の奥で渦巻く。論文は落ちた。自分は何者でもない。世界は巨大で、力強く動いている。もうすでにLLMをめぐるビジネスや研究の潮流は次へ次へと進んでいる。
だけど、俺はここで立ち止まってしまった。いつまた動き出せるか分からない。
「研究を続ける」と決めても、先には暗闇しか見えない。多分、金にもならないし、学会に認められる保証もない。何が正解か分からないまま、孤独に進むしかない。
カップの底に残った苦いコーヒーを飲み干す。
「こんなもん、誰が読んでくれるんだよ……」
スマホの画面に映るarXivのリンク。QRコードを思い出す。あのバーで俺は確かに誰かに手渡した。それが未来へ繋がるかどうかは分からない。
店員が「閉店時間です」と声をかけてくる。
外に出ると、街灯がにじんでいる。どこかに泊まらなければならない。今日はこのまま消えるように休むしかない。
それでも頭の片隅では、夜が明けたら何かできるんじゃないかと、微かな期待が顔を出す。研究を捨てきれない人間の業だ。だが同時に、何一つ報われる確証がない恐怖も消えない。
不意に、宮崎の院生からメッセージが来た。「お疲れ様でした。成果なくても学びはあるはずです。いつか一緒に研究したいです」と。
俺はその画面を見つめる。なにか返すべきか悩む。でも言葉が浮かばない。ただ「ありがとう」とだけ打つ。それ以上のことは思いつかない。
夜風が吹いて、ゴミ袋が通りを転がっていく。俺はそれを目で追う。人生そのもののように、風まかせに転がり続けるしかないのか。
結局、答えは出ない。
どこかのビジネスが俺の知見を求めてくれるわけでもなし、学会がすぐに方向転換してくれるわけでもない。
寝場所を探す足取りが重い。相変わらず頭痛も治まらない。
「ああ、くそ……」
暗い路地に俺の呟きだけが響く。
だが足を止めるわけにもいかない。どこへ向かうかはまだ分からない。それでも、今日が終わっても明日はやってくる。未練たらしくエスノメソドロジーの論文を抱えて、何も変わらない道を歩き続けるしかないのだ。
そのまま、ただひたすら葛藤を抱え込み、俺は夜の横浜をさまよい始めた。
行き先も、未来も、何一つ見えないまま。
「田島さん?」不意に声を掛けられる。
「ああ…」3人、2人は見覚えがある。認知科学とイノベーションの先生と、そして、横浜の市民協働のドンだ。昔、一緒にやっていた時期がある。あの時は熱かった。
「君が横浜ということは、CHIか?」
「ああ…逃げて福岡まで行ったけど結局戻ってきた」
正直こんな顔は見せたくない。
「そこにいいバーがある。ちょっと飲っていかないか。久しぶりだし」
ドンは演劇出身、人たらしの才能は抜群だ。バーに行くことにした。
「それで、何があった?」
「どうもこうもない、俺の研究は日本じゃ通用したが世界で通用しなかった、それだけのことだ」
認知科学とイノベーションの先生に草稿を渡す。
「日本とか世界とかどうした、横浜でやらないか」ドンが強い口調で言う。
「純粋な学問ばかりやっているとその辺の足が遠くなってな」俺は弱気で返す。
「まあこっちもLLMと市民協働でいろいろある。力を貸してほしい」
「あー、しばらく研究をやる気になれないし、そういうのもいいかもしれないな」
「この研究の方向性で市民協働をやってみたらどうですかね」先生が割り込む。
「うーん…やるなら小さいところからだな。後日イベントの内容を詰めよう。座組は任せられませんか」「そうしよう」いったん話を閉める。
「俺はもうちょっと荒っぽく飲みたい」「伊勢佐木町か」「私もついていきます」
3人で伊勢佐木町に向かう。
伊勢佐木町に向かうタクシーの中、俺はしきりにスマホをいじっていた。視線の焦点は定まらない。酒を煽ったせいか、さっきまでは人に会えただけで少しは浮かれた気分だったはずなのに、どこかまた暗い気持ちがせり上がってくる。
「おい田島、さっきの話なんだが」
後部座席に座る“ドン”――横浜の市民協働の重鎮が低い声で言った。
「LLMを活用した市民協働のプロジェクト、具体的にどんなふうにやるか見えてるのか?」
「そんなもん、今は全然わからんよ」俺は投げやり気味に答える。
「まあ、そこがイノベーションの先生と俺たちが組む意義なんじゃないですかね」と助手席に座っている認知科学とイノベーション研究の先生がうまく取り成すように言う。
「田島くんのエスノメソドロジー的視点は、プロトタイプの段階で市民がLLMをどう『当たり前』として扱うかを観察するには絶好のアプローチでしょう。俺もそこに新しい価値を感じるんだよ」
タクシーは伊勢佐木町の入口で止まり、俺たちは細い路地へ足を踏み入れる。ここはディープな飲み屋や古めかしいスナックが並ぶ雑多な街。夜のにおいが鼻につく。
「しかし田島、福岡に逃げたっつーか、旅して戻ってきたんだろ? ここからまた研究でも市民協働でもやるって、どういう腹づもりだ?」
ドンが足を止め、夜風に煙草の煙を吐き出しながら俺を見据える。
「腹づもりなんてねえよ。CHIに落ちて、世界に通用しねえって突きつけられて、それで……まあ、もう一度何かの現場に深く潜り込むしかないんじゃないかって思っただけだ。考える暇もなくフラフラしてたら、こうしてドンや先生が声をかけてくれた。俺自身も、正直どっちに行けばいいのか分からない」
「研究を捨てるのか?」
「捨てられるわけない。だけど、学会に振り回されるのももう嫌だ。おれがやりたいのは、新しい発見をして新しい地平を開くことなんだよ。なのに、トップカンファレンスに通らなきゃ評価されないってシステムに縛られて、何も動けなくなるくらいなら……」
そこまで言って、俺は自分の声が微かに震えているのを感じた。周囲は暗く、街灯の光がやけに湿っぽい路面を照らしている。人通りは多いはずなのに、まるで自分たちだけが浮いているかのような孤独さがある。
「おい、あんま深刻な顔すんな。まずは飲もうぜ。田島が荒っぽく飲みたいって言ってたんだろ?」
ドンが入り口の重い扉を押し開ける。中はカウンターに数席と、小さなテーブルが2つほど。まばらに客はいるが、ゆったりした演歌が流れていて、さっきまでの都会的な空気とは別世界だった。
「いらっしゃい」
ママらしき中年女性が俺たちを見るなり、「ドン! 久しぶりじゃないの」と笑顔になる。どうやら顔なじみらしい。
カウンターに腰を下ろし、焼酎をボトルで頼む。コップが並び、やがて氷がチャリ、と音を立てて溶け始める。その音がやけに耳に残る。
「田島くんは、論文落ちたことをずっと気にしてるんだな」隣に座った先生がぽつりと口を開く。
「誰だって気にしますよ」と俺は苦笑いする。
「研究者は査読の結果に一喜一憂するものだが、それだけを評価基準にしてると息苦しいよ。とくに日本の狭いコミュニティにいると余計にそうなる。海外を意識するとね、尚更」
「……わかってる。でも、それしか自分を証明する手段がないって思い込みが抜けないんだ」
ドンが焼酎を注ぎながら話をぶった切る。
「田島、お前は学問にこだわりたいんだろうが、それが仮に世界に通用しなかったとしても、横浜には横浜のやり方がある。市民協働だって企業や行政との連携だって、やり方はいくらでもある。そもそも、エスノメソドロジーをまちづくりに応用しようなんてヤツ、そうはいない。そこを突き詰められりゃ、新しいイノベーションの種になるかも知れんぞ」
「でもまあ、正直なところ、不安さ。うまく回る絵が想像できねえ。市民たちがLLMなんかをどう受け入れるのか、その実態をどう突き止めるのか。手間もかかるし、予算もいる。俺ひとりで何ができる?」
俺は焼酎をあおる。舌の上に強いアルコールの感触が広がる。
「人を巻き込むのが市民協働だ。幸いにも俺たちは横浜にある程度の人脈がある。研究だけでやるんじゃない。実践をやりながら検証するんだ。田島が本当に新しい知見を狙うなら、狭い学会の評価にこだわるより先に、『現場』ってやつで一旗揚げろ。あわよくば新しい評価基準だって生み出せる」
ドンの口調は強いが、その奥には何か温度がある。俺はその言葉に少しだけ救われそうになるが、同時に自分がまた何かに振り回される未来を想像してしまう。
「あの、田島さん」
いつの間にか先生が俺のコップを見て、そっと言う。
「研究は研究で続ければいいと思う。でも、それだけじゃ食っていけないのも現実です。僕も大学ではいろいろ自由にやらせてもらっているけど、外部資金を得るには派手なキーワードと、わかりやすい成果が求められる。地道な理論や方法論なんて理解されない。だけど……だからこそ面白い、って思いませんか?」
「面白い、か……」
俺は曖昧に笑うしかない。まるで耳障りのいい言葉を聞いているような気分だが、同時に自分の胸の奥底で何かが疼く。地味で理解されないからこそ、俺がやりたい、という思いが今もあるのは事実だ。
グラスを空ける。もう一杯、という前にドンが呟く。
「田島、お前はあの頃から変わってねえな。あの熱い感じ、まだ残ってる。酒の飲み方見りゃ分かるよ」
「熱さなんてどこにある? 俺はただ落ちぶれた酔っぱらいだ」
「落ちぶれたかどうかは、俺たちが決めることじゃない。少なくとも、お前が社会にいらん存在ってわけじゃないんだ。論文が落ちようが、CHIで通らなかろうが、そんなもんで終わる人間じゃないだろ?」
ドンの目は笑っていない。まっすぐにこっちを見ている。
その視線を受け止めきれず、俺は視線をカウンターに落とす。グラスの氷がまた音を立てた。
店の空気が少し重く感じられたのか、先生が話題を変えるように口を開いた。
「ねえ、あそこの角にダーツマシンがあるみたいですよ。ちょっと投げませんか?」
「俺は投げない」ドンが即答し、煙草の煙を一息大きく吐き出す。
「じゃあ、田島さんどうです? ひとつ勝負しましょう」
「面倒くせえよ……」と言いながらも、何か気分を変えたい思いがあって、俺は席を立った。
ダーツの矢を握ると、アルコールのせいか指先が少し震える。
「右手、ブレてますよ」先生が笑う。
「うるせえ」
勢いで投げるが、狙いとはまるで違うところに矢が刺さる。まるで今の俺の人生そのものだ。
「田島さん、どう考えてるんです? 横浜で研究続けるのか、何か実践プロジェクトに入るのか」
先生がダーツを投げる合間に問いかける。
「わかんねえ。正直、研究なんてもう嫌になってる部分もある。けど離れられない。俺が俺である証拠みたいなもんだからな、あれは。かといって学界の評価基準に合わせるのも性に合わない」
「なるほど。けど、その揺れ動きが今の田島さんの研究の核心なんじゃないですか? LLMと人間の概念操作の関係を分析するっていうのも、結局は『当たり前を問い直す』っていう行為でしょう? 自分自身が揺らいでるからこそ、そこに鋭く突っ込めるって気がするんですけど」
俺は投げようと構えたダーツの矢を一瞬止める。
「そんなもんかな……」
投げた矢は、やっぱり適当なところに刺さった。大した点数じゃない。俺はこの先、どこに刺さるんだろうか。狙った場所なんか、とうてい届かない気がしている。
気付けばボトルの焼酎はだいぶ減っていた。店のママが「ラストオーダーになりますよ」と声をかける。外に出ると、すでに深夜を回っている。街灯の下には酔いつぶれたサラリーマンや、店を仕舞いにかかった呼び込みがちらほら。
「ここから先はどうする?」ドンが聞く。
「さあな。どっかで寝るしかねえだろ」俺はゲンナリして答える。
「うちで飲み直すって手もあるが……ま、田島には田島の時間があるか」
「悪いっすね。もう頭がまわんねえ」
酔いのせいか足元が覚束ない。先生も少しフラついている。
「僕、今日はこの近くにビジネスホテル取ってあるんで……そろそろ戻りますよ。田島さん、また明日にでも連絡します。ドンさんもお疲れさまでした」
「おう、またな。俺も家に帰るか……田島、連絡しろよ。プロジェクトのキックオフ、どうやるか詰めようぜ」
そう言って、ドンはタクシーを拾う。俺と先生はそれを見送った。
「じゃあ、田島さん。ほんとにありがとうございました。あとで改めて連絡しますね。あの草稿、もっと読ませてもらいます」
先生もタクシーを見つけ、ふらりと乗って消えていく。
残された俺は、ひとり。夜の伊勢佐木町に立ち尽くす。街路樹の下で、飲みすぎた胃が少しキリキリする。
結局また「何かやれるかも」と言われているだけだ。学会で認められなくても、横浜でなら活路があるかもしれない。ドンも先生もそう言ってくれる。
だが、その先に本当に俺の“新しい学問”が育つ余地があるのか。それとも結局、補助金や市民イベントの波にさらわれて、何もかも流されていくだけなのか。
星も見えない曇り空を見上げる。頭に浮かぶのはCHIの会場で感じた敗北感と、福岡で飲んだ酒の苦さ。自分の研究が世界に通用しなかったという現実。
「……結局、またここかよ」
小さく呟いて、俺は暗い通りを歩き出した。どこに宿を取るかも決めていない。酔いと疲労と、そして拭い切れないやるせなさが混ざり合って、足取りは重い。
研究への未練はある。市民協働の誘いもある。何もかも捨ててしまいたい気持ちもある。
どれを選んでも、何かが足りない。満たされる道など、最初から存在しないのかもしれない。
通りに転がった空き缶を蹴り飛ばす。カラン、と乾いた音が響いて消えた。
明日になったら、またあの二人から連絡が来るだろう。俺は曖昧な返事をしながら、どうにか巻き込まれていくんだろうな。
でも本当に、それでいいのか?
沈むように歩き続けるうちに、ビルの狭間から朝の白みが見え始める。横浜の街は、このまま無関心に夜明けを迎える。
熱かったあの頃の自分には、もう戻れない。世界に通用しないなら、せめてここで何ができるか試すしかない。でも、その先がどうなるかなんて、皆目見当もつかない。
結局、何も解決しないまま。
俺は一人、伊勢佐木町の夜の残り香を吸い込みながら、次の行き先さえ曖昧に、ただ足を動かしていた。
胸の奥でくすぶる葛藤は、未だ静まらない。