さいごの晩餐
初出:ゲンロンSF創作講座5期生アンソロジー『5G』(2021/11/23)から少し加筆修正しました
 口コミは金で買う時代だ。だから飲食店はレビューサイトの点数が高すぎない方が信頼できる。
 というのが早川慎太郎の哲学だったが、そんな早川の持説を親友である井元亮司はいつも適当に聞き流していた。外食に興味がないからというのが一番の理由だったが、それはあくまで表面的なものに過ぎない。井元という男は、顔も知らない誰かが作ったシステムに乗っかるのをこよなく嫌う捻くれ者だったのだ。井元は株取引が嫌いだし、ポイントカードも作らないし、はがきに郵便番号も記入しないし、数年に施行された国民総番号制度も未だに気に食わない。どれもこれも、よくわからない奴らが勝手に「徳だ」と決めつけて作った巨大なゲーム盤でしかない。自分は駒になどならない。というのが井元の偏屈な価値観であった。
 一方、早川は真逆の人間である。システムを深く考えない。ゲーム盤に疑念もない。そうでなければ長年続ける趣味にスポーツなど選べないだろう。盤の上での最適化こそが早川のこだわりだった。だから飲食店も映画も通販商品も事前にレビューサイトを必ず見るし、電子書籍だって躊躇なく買う。そんな早川に、井元はいつも感服していた。呆れた、という方向で。
 二人は就職を機に多少疎遠になったものの、それでも数ヶ月に一度は酒を飲み交わす仲だ。居酒屋巡りが趣味の早川に対し、井元はグルメに関してからっきしだった。普段からチェーン店でしか外食をしないし、会社の飲み会にも顔を出さないので、いわゆる居酒屋と呼ばれる場所には早川としか行かない。というか、井元は早川しか友人がいない。三十歳も過ぎて偏屈だからだ。
 その日、仕事帰りの井元が連れていかれた店もまた、早川の理論を体現したかのような串焼き屋だった。旨い、安い、混んでる、でも点数は平均よりやや高い程度の星3.71。
「どうしたよさっきから。機嫌わりーな今日」
 そう言うと早川は、テーブルの下で激しく貧乏揺すりする井元の右足を軽く蹴った。すぐさま井元が蹴り返す。早川が小さく「痛った」とぼやいた。
「うっせぇ。ほっとけ」
「そんなんだから彼女いねーんだよ」
「うーわ出たよ陽キャの悪い癖が」
「なんも悪くねーだろ」
「恋人いるのが正義と思うなよ、このクソ彼女持ちが」
「イチャモンの付け方が童貞すぎる」
「死ね」
 そう井元は苛々したそぶりを隠しもせず吐き捨てると、いびつなアルミ皿で運ばれてきたカシラ串を頬張る。くそ、旨い。と井元は瞬時に思い、降伏の言葉が脳裏を過った。特製の味噌だれに漬け込んで焼かれたカシラが、絶妙な歯ごたえを感じさせながらほぐれて胃に流れてく。一瞬だが野次られた腹立たしさも忘れてしまった。井元は缶チューハイ半分で首まで真っ赤になる下戸だったが、炭火でほのかに焼け焦げたこの濃い味噌だれが、辛口の酒にぴったりなのは容易に想像がつく。
「飯屋も減ったよなー。昔はそこら中にあったのに。店探し苦労するわ」
「いつも思うけど、こういう店ってどうやって探してんの?」
「足だよ足」
 レビューサイトじゃないんかい、そこは。
「本当に旨い店ってのはな、ひたすら歩いて見つけんだ」
「誇らしげに言うことかよ。泥臭ぇ」
「じゃあおまえは一生地図アプリと睨めっこでもしてろ。あ、すいません」
 早川はジョッキに残っていた生ビールを一気に飲み干すと、近くを通りがかった金髪の男性店員におかわりを注文した。三杯目。
「人生最後に飯を食うとしたら、なに食う?」
 焼き枝豆をつまみながら早川が問う。だがその途端、井元はことさら不機嫌そうに眉をひそめた。
「……なんだっていいよ俺は。たいして食いもんに興味ねぇし、下戸だし」
「俺なにかなー。唐揚げかな、揚げたての。モモ肉大きめに切ったでかめのやつ。でけぇと口ん中パンパンになっていいんだよ。そんで肉汁がさ、じゅわっとこうあふれてさ。最高〜」
 陽気に話す早川を無視して、井元が少し冷めた砂肝を頬張る。噛んだ瞬間、ごり、と固い音がした。
「最後唐揚げは絶対胃もたれする」
「なら胃腸薬飲むし」
「そこまでするほどか?」
「俺愛しちゃってんだよなー、唐揚げちゃんのこと」
「きんも」
「はいおかわりー。あと牛タン」
 店員が生ビールと分厚い牛タン串をテーブルに置いた。二本の串で広げられた牛タンには、みじん切りにされた塩だれネギが山のように乗っている。
「ポテサラもいいよな。俺ポテサラ超好きよ」
 早川が大きな口で牛タン串にかぶりついて言う。
「ポテサラぁ?」
「じゃがいもがごろっとしてる方が好きだな。大学の時よく一緒に行ってた高円寺の店あんじゃん。あそこの鶏ハム使ったポテサラ傑作だったなー。アクセントに粒マスタード入ってんの」
「あれ鶏ハムが珍しいってだけじゃん」
「あったり前だろ、そこセンス感じるとこじゃねーの料理長の」
「二十席程度の、店で、料理長って、おま」
「語尾にw付けた話し方すんな」
「そもそもポテサラは最後に食うもんじゃねぇ絶対」
「わかってねーポテサラ様を。どう作るか知ってっか? ゲボ吐くほど面倒だからな」
「俺は手間暇じゃなくて価格の話してんだよ」
「今日文句ばっかだな」
「そもそも最後に食うのが芋って」
「何が悪いんだよ」
「芋なんてさー。米ない時に仕方なく食うもんだろ?」
「ばっっっ、ばか、バカか。は? 一生フライドポテト食うな」
「別にいいよ」
「嘘だろぉー」
「ガツ刺しでーす」
 店員が皿を置く。ぶつ切りにされたガツと薄切りにされたネギがたっぷりのポン酢で和えられていた。早速早川が箸を伸ばし、ぱくりと食らいつく。
「うめー」
 嬉しそうに早川が言う。井元は箸すら持たない。見た目が気味悪いのだ。
「最後ガツ刺しでもいいな」
「なんでだよ。おかしいだろ」
「いちいちうるせーなー」
「絶対それじゃない」
「じゃあたとえば」
「えー……ステーキとか、寿司とか、うなぎとか」
「おまえ本当に飯食うこと興味ないのな」
「なんでぇ?」
「普段から旨いもん食ってる奴はそんな発想しねーからだよ」
「お兄さんおかわりいかがっすかぁ?」
 と、店員が伝票片手に割って入ってくる。井元は空になったグラスを店員の方に寄せながら「ウーロン茶」、早川は壁に貼られたメニュー表を見つめながら「ハイボール」と答えた。変な熱気を帯びた雑談が中座して、しばしの沈黙に代わる。店内は満席だ。串物を焼く煙が天井にうっすらと漂っている。早川と井元が座っているのは奥の壁際である。
 井元はうんざりしていた。
 いつものこととはいえ、今日ばかりは早川と話せば話すほど苛立ちが増している自覚があった。話題も最悪だ。こんな調子なら早く切り上げてしまいたいと、井元は無意識にまた右足の貧乏揺すりを始めた。
「最後に食うもんかー」
「……もういいよなんだって」
 しぶとい早川に、井元が絞り出すように呟いた。
 心からの本音だった。だが早川はその感情に気づいていないのか、それともただ無視しているのか、なおもその話題を続けようとする。
「やっぱお袋のカレーかなぁ」
「おまえの母ちゃん離婚してとっくにいないだろ」
 直後、ぴりっと空気がひりついたのを井元は感じた。しまった、と内心思ったが後の祭りだ。
「……おまえ本当に今日どうしたんだよ」
 早川が問う。訝しげな顔だった。なんなら心配そうにも見える。
「おかしいぞ」
「おまえのせいだろ」
 飲んでもいないのに酔い潰れたように項垂れながら、井元が言う。
 とりつく島のない井元の態度に、早川は困ったように溜め息をついた。二人でしばらく黙っていたら、豹変した空気を察した店員が気まずそうな顔でウーロン茶とハイボールをテーブルに置き、小さく「うぃ〜」と呟き去っていく。
「あ。もしかして店入る前にした、あの話? あれのせい?」
 早川がハイボールを飲みながら、ふと思い出したように言った。
「それ以外に何があんだよ」
 項垂れたまま井元が答える。
「大袈裟な……真面目に受け取りすぎだって」
「ふざける方がどうかしてる」
「そんな大した話か? 古いなー。みんなやってんじゃん」
「……そうかよ」
「別に珍しくないって、臓器ビジネスは」
 早川の口調は普段と何も変わらない。あまりにいつも通りなので、その言葉が早川の本心なのか、はたまた虚勢を張っているだけなのか、井元には判断できなかった。
 井元が早川からその話を聞いたのは、三十分ほど前、待ち合わせ場所の錦糸町駅前から店までの道すがらのことだった。早川が臓器移植の提供者登録に行ったという、話というよりは一方的な報告に近い内容であった。しかもすでに胃と肝臓が落札されているというのだから、より聞くことしか許されていない雰囲気だ。平均より健康体だったため良い値が付いたと喜ぶ早川の表情が、井元は何よりショックだった。
 摘出後は人工臓器がインプラントされるらしい。当然、これまで通りの自由な食事はできなくなるし、アルコールも厳禁だ。排泄だって困難を伴うようになるかもしれない、そもそも手術で命を落とす可能性だってある。それだけの高いハードルがありながら、臓器提供を申し出る者は決して少なくない。理由はひとつ。いい金で売れるからだ。
 井元は悔しかった。人一倍食べることと酒を飲むことが好きだった親友が、よりにもよってどうしてそのための臓器を手放さなきゃならないんだ。せめて自分のような食に興味のない人間だったらよかったのに。なのに。早川が平然としているせいで、井元は存分に悲しむことすらできずにいた。機嫌が悪いのは、要は八つ当たりだ。
「……どうにもなんないわけ?」
「なんないなー。契約書サインしちゃったし」
 早川が明るく答える。井元は聞けば聞くほど落ち込んでいく。
「手術は?」
「来月くらいかな。二日前にならないと確定しなくてさ」
「突然決まるってこと?」
「大体の目安は貰ってるよ。でも確定すんのは……そうだな、そうかも。突然決まるわ」
 井元はようやくウーロン茶のグラスを取った。喉の奥まで乾いていて、一気に半分近く飲んでしまった。
「そんなに金困ってたっけ」
「そりゃなー。給料安いし、ボーナスないし、奨学金の返済全然終わってないし」
「俺だってそうだよ」
 でも臓器は売らない。
 という言葉を、井元はすんでの所で飲み込んだ。あと十歳若かったらうっかり漏らしていただろう。こうした失言が原因で井元はこれまで何人もの友人を失っていた。結果、図太い早川だけが生き残ったのだ。今も不機嫌を隠そうともしない井元の前で平然と笑っている。おそらく早川は、井元の胸中などお見通しなのだろう。
 早川が微笑みながら口を開く。
「俺どうしてもやりたいことあってさ。でもすげー金掛かんだよね。なんとかなんないかって色々調べたけど、やっぱどうにもならんっぽくて。だからもう決めたんだ。金にできるもんは全部売るって」
 井元はただ聞くことしかできない。
 いつも考えるより先に言葉が出る井元でさえ、何かを口走る余地など残されていない清々しいほどの言い切りだった。事前に何も相談されなかった自分が情けないと、深く傷ついているせいでもあった。
 すっかり黙ってしまった井元を、早川が陽気な声で励ます。
「いや全部は嘘だわ。さすがに眼球は売りたくないし、心臓もちょっとな」
「……」
「うっかり電池切れたらこえーじゃん?」
「……」
「……二人で飲むのもこれが最後かー」
「……」
「ごめんな。なんか暗くさせちまって。元気出せって」
「……」
「しょげるなよ。な? これからは居酒屋以外で会おうぜ。カラオケとかさ」
「おまえクソ音痴じゃん」
「やっと喋ったと思ったらそれかよ」
 早川のツッコミに、井元はようやく小さく笑った。
 二人には貯金がない。ボーナスも出ず、大して高くない給料のほとんどは税金で消える。不動産も株もない。買うための頭金すらない。親も、その親も、二人と同じかそれ以下だ。それでも死ぬまで生きていく。前向きに、前向きに、様々なものを手放しながら。つらくなったら気の合う仲間と会って、なんとか今日を耐え忍ぶ。きっと明日はいくらかましだと、願いながら。
 氷の溶けたウーロン茶をちびちびと飲むだけになった井元の向かいで、早川はホッピー二本と熱燗を飲み、人気メニューの鶏つくねと明太子おにぎりを平らげると、満足げに店を後にした。帰り際、店員たちが野太い声を揃えて「またどうぞ!」と送り出してくれたのが気持ちいい。早川が最後の食事で高級料理を選ばなかった理由が、ほんの少しだけわかった気がした。
「手術日決まったら連絡するわ」
「おう」
「見舞い来いよ」
「やだよ。彼女いんだろ。頼めよ」
「頼むに決まってんだろ。そうじゃなくて、おまえにあいつ紹介したいから」
「いい、いい。自慢は間に合ってる」
「手術成功したら結婚すんだ俺たち」
「は!?」
「婚姻届の保証人の欄、空けてあるからさ。見舞いに来た時サインしてくれよ」
「なぁー! 逆じゃない!? 行きと帰りでする話が逆じゃない!?」
 顔も知らない誰かが作ったゲーム盤で駒になんかなりたくない。不気味だ。自分のことなど知りもしない奴らが、耳元で無責任に欲望ばかり囁いてくる。番号を名乗れ。株を売買しろ。ポイントを貯めろ。クソ食らえだ。システムは大半の人々を満足させる。真綿が首に絡みついた一部の持たざる人間たちを除いて。誰かにとっての都合のいい駒なんかになりたくない。俺の人生だ。あいつの人生だ。死んでもごめんだ。
 でも早川はそれでもいいと言った。叶えたい夢があるから。
 なんて勇敢なんだろう。井元は眩しくて直視できない。
 総合病院の正面玄関で、井元は念のためもう一度スマホのアプリを立ち上げると、早川から届いたメッセージを確認した。西橋市立西橋総合病院、六階、二○二号室の右側一番奥のベッド。
 総合病院はまるで迷路だ。危うく迷子になるところだった。看板を頼りになんとか病棟へのエレベーターを発見し、中に乗り込んで六階のボタンを押す。点滴のスタンドを持って移動する寝間着姿の患者に囲まれ緊張した。降りたらナースステーションで受付を済ませ、教えられた病室を目指す。
 遠くから赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
 二○二号室、右側一番奥のベッド。井元がカーテンをめくると、早川が生まれたばかりの新生児を抱いてあやしていた。
「おう、来たな」
「こんにちわぁ、井元さん」
 ベッドに横になった早川の妻が、井元に軽く会釈する。
「ども」
 緊張気味に井元が会釈を返す。早川の妻とは、婚姻届の保証人欄にサインした時と結婚式で会った。今日で三度目だ。
 早川の摘出手術が成功したのが四年前。臓器を売却して得た金で二人はすぐに不妊治療を始めた。めでたく治療は成功し、数日前に念願の女の子が生まれたばかりだった。
「あぶぶぶぶ〜」
 早川はまるで別人のように浮かれている。なるほどこれが親馬鹿か、と井元は思った。
「可愛すぎる〜、天使だわ〜」
 井元が赤ん坊を覗き込む。想像していたより大きい。まぶたがやけに分厚く、見えてるのか疑わしいくらいに目が細かった。ハムスターの赤ちゃんみたいだなと井元は思ったが、胸中で呟くだけに留める。この場にいるのが父親だけだったら口から漏れていた。
「顔、いずみちゃんそっくりだろ」
「……そうだな」
 正直見分けすら付かない。適当に話を合わせる。
「育てるの大変っすか」
「そうですねぇ。全然寝れないです」
 井元の問いに、早川の妻いずみは苦笑しながら答えた。
「悪いな井元、もう気軽に遊びに行けなくなるわ」
「いやー助かる。危うく俺の音感まで狂うとこだったからな」
 井元の軽口に一番笑ったのはいずみだった。いい夫婦だ。
 赤ん坊の手のひらに、井元が人差し指を乗せる。
 握り返してきた小さな手は力強かった。
おわり