勝手な創作論
こんにちはこんばんは。おけぴです。いつもうちのずんだもんがお世話になっております。
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インパクトずんだもんぬいぐるみ(以下略)
唐突なのですが、僕は絵を描くことが大好きです。と同時に、絵(ひいては創作)を研究することも大好きで、現時点での絵に対する考え方を自分の頭の整理のためにも書き留めておきたいなと思ったので、ここにまとめていきます。注意書きとして書いておきたいのですが、絵を描くことに対する個人的な意見しか書いていません。僕は自分の考え事を何かに書きまとめるのが日課になっていて、その一環のようなものです。興味のある方はなんか適当なこと言ってんな、くらいの気持ちで見ていただければと思います。
先に絵に対するざっくりとした印象から話すと、「なんにも分からん!」です。絵と向き合い始めてからかれこれ4年くらいは経ちますが、絵が分かる、ということは一度もありませんでした。色んなことを実験・検証したのですが、しっくりくるものが何一つなく…。むしろ、調べれば調べるほど分からなくなっていくんです。4年もやってきた答えが「なんにも分からん!」なんて、つまんねーの。と思った方…今から僕はこの「分からん」についてあと5000文字くらい書き込みます。
…まあ、まず少し僕のことから話させてください。僕はかなり理系アタマといいますか…絵に関してもちょっと工学チックな観点で物事を捉えてしまうクセがあって、そういうスタンスで絵の研究をしていました。例えば、ニュートンが発見した力学は、現代にいたるまでの工学分野に多大な影響を与えていて、基礎的な物理現象の体系化から色んな形で応用されることで、新たな物理現象の解明であったり、身の回りの生活を豊かにするモノが生まれたりするわけです。もしこの考え方が絵にも同じように適用されるなら、良い絵が良い絵たらしめる法則を見つけ出せば、再現性をもって良い絵を描き続けられるんじゃないか?というスタンスが僕の出発点でした。だから、まずはとにかく良いなと思った絵をブックマークしまくって、そこに見出すことができる法則に着目しました。色んな絵を線・色・形のような構成要素に分解し各々で評価した上で、その評価をもとに絵を再構築する、みたいなことをしていました。
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絵の構成要素の細分化
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ずんだもんで見る絵の構成要素
まあ…結果としては、あまり上手くはいきませんでした。このずんだもんの絵自体はすごく可愛いのですが、自分が納得のいく絵を再現性をもって表現できるような法則の発見にまでは至らなかった、ということです。そもそも、絵に法則が存在しているという仮定を前提とはしていましたが、じゃあなんで描く人によって絵からそれぞれの個性を感じることができるのか?とか、絶対的な法則がほんとに発見できるのなら、もっと世に出回る絵は均質的なんじゃないか?とか、ふんわりと疑問に感じてはいました。僕の仮定が正しいならば、絵に「最適解」が存在するんです。まあ…そんなわけないと、そこで僕の前提としていた理屈が打ち砕かれました(ほんとはもう少し紆余曲折ありますが)。
じゃあ、どうすれば良い絵が描けるようになるのかと、改めて考えることにしました。そもそも「良い」ってなんでしょう。急に哲学的な問いになってしまいましたが、多分創作を続けている人達なら、恐らく同じような疑問にぶち当たったことがあるのではと推測します(創作に限らないかも)。先ほどの僕の理論には、良い絵の「良い」が何かしらの形で存在することを前提として考えていました。でもよく考えると、「良い」って何も実体を持たない不思議なものだと僕は思います。タイムラインに流れてきて思わずいいねしたその絵は、「良い」ということだけは分かるんだけど…じゃあ具体的に何が良いのかと聞かれると、上手く言語化することができない。あるいは部分的に言語化してみても、それで「良い」の全てを説明し得ないような…みたいな。自分の気分次第で変わることもあると思います。公園で出会った野良猫に引っ掻かれたその日に、ネコチャンのイラストを見てもどこか憎たらしく感じてしまう…とか(ネコチャンに罪はない)。いつもは迷わずいいねしていたかもしれません。そんな、霧のように揺らいでいて何も掴みどころのない、でも惹きつけられてしまう…そんな感情が「良い」、僕はそんな風に認識しています。
そういう掴みどころのなさを認識した上で、絵と向き合う必要がありました。掴めないまま描く、というのは最初はかなり抵抗があって、筆をとるのにも気持ちのエネルギーを要しました。でも、案外分からなくても絵って描けるんだということに段々気付いてきました。人間って不思議なもので、中身が分からないままでも、直観的な判断でベター(ベストではない)な解を見つけ出すことができるみたいです。その感覚を伝えたいのですが…上手く言語化ができる気がしませんが、書いてみます。
鉛筆を一本渡されて、「家と木と空を描いてください」と言われたら、これを読んでいるあなたはどんな絵を描くでしょうか。このお題を不特定の100人にやってもらうとして、全く同じ作品が生まれることは無いと思います。雲一つない晴れた空を描く人もいれば、家の周りに木をたくさん生やす人もいたり、家に窓をつける人もいたり。記号的に見れば同じとみなすことはできると思います。ただ、僕が言っている「同じ」とは、その鉛筆のかすれ具合や、線の揺らぎ、表現のディティールなどまで同じということです。似ているものはあれど、そういう意味での「同じ」作品って絶対に存在し得ないですよね。そして、そのかすれや揺らぎ、ディティールを生む過程に遡ると、寒くて手がかじかんで上手く線が引けなかったとか、早く済ませてさっさと帰りたかったから適当に描いたとか、ついさっき通った道で見かけた家をそのまま描いてしまったとか、きっと思い思いに筆を走らせた経緯があるはずです。線の変化が生まれた理由には、外的要因・内的要因そのどちらも影響していて、かつ、絵を描いた当の本人ですら意識していないことまでも、変化として現れたりするわけです。
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僕がイメージしたお題の絵
ここで改めて、絵における「良い」って何かと考えたときに、そんなの分かるわけない!って思いませんか。敢えて理系チックに言ってみると、振れるパラメータが多すぎるんです。例えて違う言い方をするなら、屋台の千本引きみたいなもので、どの紐引っ張れば当たりに繋がるかなんて、正直考えたって仕方がないんですよ。でも、この紐が「引っ張って!」って言ってる!とか、なんとなくこの紐だけ光って見える!とか、何の根拠もない直観から紐を引っ張りたくなっちゃった、みたいな感覚って誰しもが持っていると思うんです。特段理由はない、なんとなく、みたいな感覚です。僕はこの「なんとなく」こそ、「良い」の種だと思っています。そしてこの「なんとなく」の根本は、その人の見て聴いて経験してきたこと、幼少期の記憶だったり、普段から考えていることだったり、(語弊を恐れずに言うと)その人の生き方にあると僕は思っています。詰まるところ絵というのは、「なんとなく」描いた線の集まり、もう少し細かく言うと、「人間の、ある瞬間の心の動きから生まれる身体の動きによって導き出される線の集合体」みたいに、僕は認識しています。これを、とにかく自分が心地よいと感じる方向に仕向けていく。「なんとなく」に従って。その先に生まれるものが「良い」絵の正体だと、僕は思っています。結局のところ絵がうまくなるためには、「とにかく描け!バカ!」(ルックバックからの引用)しかないんですよ。藤野はそれを信じて正解だったと思います。僕はそこに辿り着くのに4年も掛かったらしい。
僕はこのように絵を捉えているので、例えば友人と公園に集まって適当にダベることと、絵を描くことって大して差は無いと思っています。それは、どちらも「ある瞬間の心の動きから導き出される変化」を楽しんでいることに変わりないからです。長年友人とダベりまくっていたら、相手が次に何を言うのか分かるようになってきた、そういう「なんとなく」の先鋭化が、絵で言うところの良い絵が描けることに等しいと考えています。そして何より、大して意味がない(!)ということも言っておきたい。強い言葉を使うことに怯えて「大して」と、付けてしまいましたが、少なくとも僕に限っては、絵を描くことは何の意味もないと思っています。絵を描くことが大好きだと言っておきながら、急に突き放すような言葉選びに少し違和感を覚えるかもしれませんが、本当にそう思っています。でも考えてみると、公園に集まって友人とダベることに意味ってあるのでしょうか。仲を深めるためとか、相手の考えを知るためとか、捉え方によれば意味を与えることもできるかもしれませんが、「話そうぜ」の一言に、いちいちその言葉の意味なんて考えていないはずです。それこそ「なんとなく」話したいから。僕にとっては絵も同じで、「なんとなく」描きたいから。そう説明する以外に上手い言葉が出てきません。心の動きに従って生まれたアクション、そこに意味を当てはめるのは、なんだか野暮ったく感じます。
あと、方法論についても少し言及しておきたい。最近はめちゃくちゃネットが発達していますから、絵の描き方なるものは調べればいくらでも出てきます。僕もネットの情報にお世話になった人間の一人です。ただ注意されたいのは、正解のように振る舞う方法論を過信しないことです。要は、その描き方でなければ絵が上手くならないと思ってしまわないことです。フレームワークのような、予め型が決められているものなら話は違いますが、ただ自分の満足のいく絵を描きたい、内なる創作意欲のままに何かを作りたいと思うならば、どんなあり方でも良いと認めることが大事だと僕は思います。別に、全てを型破りでいけ!と言っているワケではなく、「最適解」の存在を諦めて、自分の選択を尊重することです。それこそこの僕の話も、一個人の絵の捉え方に過ぎず、絵の一般論(最適解)として語っているわけではありません。僕が掛けてるメガネからは、絵というものがこう映っているというだけです。だから反対意見があって当然だと思いますし、それを否定する権利は僕には全くありません。「こうすれば良いよ」という言葉に耳を傾けつつも、自分の意志との折り合いをつけていく。そういうスタンスで試行錯誤していくのが良いのかなと思います。僕には、僕なりの絵の描き方みたいなものがあるのですが、正直あんまり他の人に通用する気がしません(別で紹介してもいいかも)。これは僕が特別だからとかではなく、僕だけに特化したチューニング技術、みたいな感じだと思います。特定の機器にのみ差し込める端子みたいなものです。こういうのも、試行錯誤の結果得たものですし、これが最適解だとは到底思えませんが、僕の思う「良い」に少しは近づけたという確信があります。
さいごに、僕がここまで「分からん」について考えてきた理由のひとつに、この言葉があります。
曖昧を曖昧なまま受け取る覚悟を持つ
とある僕が尊敬している方が1年半前にぼそっと呟いたツイートなのですが、僕はどうしてもこの言葉が忘れられなくて。何事にも分かる形で明らかにしたいと望んでいた自分に、右ストレートを顔面ド真ん中に喰らいました。というのも、自分自身色んなものに曖昧さを感じ取ってはいながら、それを言語化できないもどかしさに耐えられなかったのかなと思います。絵に対しても、絵の全てを明らかにしてやる!くらいのスタンスでした。でも、それが無謀な挑戦だということに気付くのには時間が掛かりました。この記事では、全体を通して曖昧なことしか言ってなかったと思いますが、それは多分僕なりの曖昧の受け取り方なのかなと思います。曖昧なものをそのまま受け取る、そう選択せざるを得ないこともあるということを、僕は、絵を描く中で見つけられた気がしています。
おけぴ