プロセスに目を向ける
こんにちはこんばんは、ずんだもんでございます。okep h.icon
好きな絵とか音楽をいっぱい見たり聴いたりして、「どんなとこが好きかな?」とか「どんなとこが自分の作品に取り入れられるかな?」とかずっと考えているんだけど、想定通りに自分が好きだと感じたものを作品に取り込めたことってほとんどなくて、たいてい、思わぬところで「あ!これ使えんじゃん」と、ふと思い出すように筆が進んだりする。よく考えてみると、自分が好きだと思って見ている作品も同様に、くねくねと回り道をした結果その色や形、質感、あるいは音色や和音、リズムになっていて、一発ドンピシャで引いた線や奏でた音がそのまま作品として形になっていることって、まあほぼ無いと思う。必ず、その裏にはなが~いプロセスがあって、色々寄り道した結果そこに辿り着いているはずで、その結果を結論として作品にできるのは、そのプロセスを辿ったからに他ならない。でも!作品からはそのプロセスが表面化されることはない。内面的に滲み出ているものを直観的に感じられるものならあるだろうけど、情報として受け取ることができるのは、そこに描かれてあるもの、そこに奏でられたものしかない。これが、見たもの・聴いたものを簡単に取り込んで自作品に落とし込めない理由なのかなと思った。きっと、そのくねくねプロセスを辿ったからこそ、その表現に見出される「良さ」が感じ取られるのであって、それを本質的に捉えているのは恐らく、その作品を作った表現者しかいない。
だから、もっとプロセスに目を向けたいよね!というのが、この記事の本題。好きな表現をそのまま自分のものにするのは難しいけど、その好きな表現は、自分と創作行為との格闘の中で、突然としてパズルのピースのように当てはまっちゃう瞬間がある。こうして生まれる「良さ」は、プロセスを辿った先にしか存在しない。恐らく、創作行為というのは、設計図の通りに物を作り上げていくような行為ではなく、歩みを進めていく中で道に転がっている綺麗な石をひとつずつ拾い上げていく行為なのかなと思ったりする。あの山を超えるぞ!くらいのざっくりとした指針さえあれば、あとは道中で綺麗な石を血眼になって探し続ける。例えばっかになったけど、絵に当てはめて考えるなら、「〇〇の絵が描きたい!」というざっくり指針をベースに、そこから筆を動かすプロセスの中で、「こう曲線を描いた方が良いか?」とか「この配色にした方が良いか?」とか、ただひたすら考え続ける。その中で生まれた「これ良いじゃん!」と思える表現を選択していく。「あの作品の通りに表現すれば、必ず上手くいく!」と盲信はせず、慎重に、ひとつひとつの手の動き、自分の考えを見つめなおしながら、心から自分が好きだと思えるものを生み出せたら…嬉しいね。
以上、ずんだもんでございました。