『永山則夫 聞こえなかった言葉』pp251-257(永山則夫年表)
一〇月一八日警視庁、「広域重要一〇八号事件」に指定。
一〇月一九日 永山、次兄宅に金を無心に訪れ、犯行を告白。「北海道で自殺する」と告げ立ち去る。
一〇月二六日午後一一時一三分頃、北海道七飯町でタクシー運転手を後部座席から射殺、売上金を強奪。
一月五日午前一時二三分頃、名古屋市港区でタクシー運転手を射殺。現金・腕時計を奪って逃走。
一月一七日深夜、静岡市内の高校などに侵入。現金、預金通帳等を窃取し、会社事務所ではカーテンに放火し逃走。
11月一八日銀行で、前夜に取した預金通帳で現金を引き出そうとして未遂に終わる。逃走時に拳銃で威嚇する。
一九六九年(二〇歳)
一月上旬新宿区歌舞伎町のジャズ喫茶に就職。
四月七日午前一時六分頃、渋谷区千駄ヶ谷の英語学校に侵入、駆けつけた警備員に発砲して逃走。渋谷区代々木の路上で拳銃不法所持で現行犯逮捕。捜査本部のある愛宕書に移される(本書カバー写真はこの時の情景)。
四月八日参議院法務委員会で、「保護観察に手抜かりがあったのではないか」との質問に法務省の塩野宜慶保護局長が「まことにもっともだと思う」と答弁。
五月一〇日 東京地検、「刑事処分相当」の意見を添えて東京家裁に送致。東京家裁は東京少年鑑別所に送る観護措置を決定。永山は収容された東京少年鑑別所で自殺を図るが未遂。
五月一四日 母親が永山則夫と面会。永山は「おふくろは、オレを三回捨てた」と、ひと言だけ発言。
五月一五日東京家裁、東京地検への逆送を決定。永山を東京拘置所(巣鴨)に移送。
七月二日
『無知の涙』執筆開始。
九月二日 『週刊プレイボーイ』九月九日号が「連続射殺犯・永山則夫の手記』を掲載。
八月八日 東京地裁で初公判。
一二月二二日第六回公判で弁護人に質問され「うるさい!何が真実だ。とにかく、あれは俺がやったんだ」と証言を拒否。
一九七〇年(ニ一歳)
六月三〇日第一一回公判で永山は「資本主義が貧乏な奴をつくるから、俺はここにいるのだ」と叫び、ウイリアム・ボンガーの「犯罪と経済状態」の一節を英語で暗唱する。
一九七一年(ニニ歳)
二月三日~九日 精神鑑定のため都内の病院に身柄を移送。
三月一〇日 『無知の涙』(合同出版)を刊行。印税を被害者遺族に寄付するなど条件がつけられる。
五月一六日 第二一回公判、精神鑑定書提出。「情意面の偏りはある程度認められる」。
六月一七日 第二四回公判。検察側、論告求刑で死刑を求一〇月 新藤兼人監督の映画『裸の十九歳』公開。
一九七三年
(二四歲)
五月一〇日 『人民をわすれたカナリアたち』(角川文庫)刊
一〇月一八日 『愛かー無か』(合同出版)刊行。
一一月一〇日 『動揺記』(辺境社)刊行。
一九七四年(二五歲)
一月一六日~四月一日八王子医療刑務所に鑑定留置。
六月法務省「少年法改正要綱」に基づき、法制審議会に諮問。
八月三一日東京地裁に「石川鑑定書」提出。
一九七六年(二七歲)
九月二一日裁判長が転任で交代。簑原茂裁判長は、第五〇回〜五三回までの公判期日を指定。第三次弁護団はこれに反発。
一〇月二〇日 第五〇回公判期日に弁護人全員々席。永山も途中退延を命ぜられ、弁護人、被告人不在で審理を続行。
一九七七年(二八歲)
五月二四日第五六回公判期日に弁護人が欠席、裁判所の公判期日指定に抗議して辞任。
九月七日
東京地裁、東京弁護士会に対して国選弁護人の推
薦を依頼。
一二月一五日『反・寺山修司論』(JAC出版)刊行。
一九七八年(二九歳)
一月二三日法務省の藤永幸治参事官が「(弁護人抜き裁判の)適用第一号は永山則夫になるだろう」と発言。
三月一六日東京弁護士会役員の弁護士三人が国選弁護人に
就任(第四次弁護団)
一〇月三一日 「回復期」執筆開始。
一二月一九日第六一回公判。永山が弁護人に詰め寄り怒号を上げ、制止をふりきって暴れたため退廷。傍聴席で叫んだ
り発言した傍聴人五人も退延。
一九七九年(三〇歳)
二月二八日第六三回論告求刑公判。検察は死刑を求刑。永山、「弁護人を解任しろ」と発言、退廷を命じられる。
五月四日 第六六回公判。弁護人の最終弁論終了。永山は机を叩き「今からこの法廷を人民法廷にする」と叫んだため退
延を命じられる。
七月一〇日 東京地裁、死刑判決を言い渡す。
七月一一日 第四次弁護団、東京高等裁判所に控訴。
一九八〇年(三一歲)
一二月一二日文通で交流していた女性と結婚。
一二月一九日東京高裁刑事二部で控訴審第一回公判。
一九八一年(三二歲)
二月一五日永山の「妻」が名古屋事件の遺族を訪ね謝罪。
八月二一日 東京高裁、無期懲役判決(船田判決)。永山が著作の印税を被害者の遺族に贈るなどの情状を考慮。
九月四日 東京高検、「判例違反」として最高裁に上告。
一九八二年(三三歲)
小説「木橋」の執筆開始。
一九八三年(三四歲)
二月「木橋」が第一九回新日本文学賞を受賞。
七月八日 最高裁第二小法廷、裁判官全員一致で無期懲役の原判決を破棄、東京高裁へ差し戻し。
七月二七日 永山、東京高裁刑事三部に上申書を提出。
このころ、小説「土」執筆。
一九八四年(三五歲)
七月一五日『木橋』(立風書房)刊行。
一〇月三日小説「死刑の涙」
一二月一九日 東京高裁刑事三部、差し戻し審第一回公判。
一九八五年(三六歲)
九月 小説「破流」執筆開始。
一二月二三日/主任弁護人が東京高裁に精神鑑定申請書を提出したため、永山と第七次弁護団との対立が激しくなる。
一九八六年(三七歳)
一月二三日 永山、主任弁護人の「解任届」を提出。
一月三一日弁護団が「精神鑑定申請補充書1」を提出。
三月一五日『ソオ連の旅芸人パロール・パロディスト氏の一日』(言葉社)刊行。
三月三一日大谷恭子弁護士、「精神鑑定申請補充書2」を提出。永山に即日解任される。
四月三日
協議離婚成立。
五月
雑誌「文藝』夏季号に「破流」発表。
七月一五日 東京高裁、遠藤誠弁護士を国選弁護人として選任。
一九八七年(三八歲)
三月一八日差戻控訴審判決。東京高裁刑事三部は永山の控訴を棄却。
七月一〇日
『捨て子ごっこ』(河出書房新社)刊行。
一〇月二二日 最高裁第三小法廷に上告趣意書を提出。
一九八八年(三九歲)
五月 『文藝』夏季号に小説「残雪」発表。
一二月『文藝』特別号に小説「陸の目」発表。
一九九〇年(四一歲)
一月二九日日本文芸家協会理事会に入会申込書を提出。
四月一七日最高裁第三小法廷、上告棄却を決定。
四月二三日遠藤誠弁護士、「判決訂正の申立書」を提出。
五月 『文藝』夏期号に小説「異水」発表。
五月八日 最高裁第三小法廷、申し立てを棄却。永山則夫の死刑が確定する。
五月三〇日『異水』(河出書房新社)刊行。
七月四日 『無知の涙増補新版』『木橋』(河出文庫)刊行。
一九九七年(四八歳)
八月一日午前一〇時三九分、東京拘置所内で死刑執行。
一九九八年
七月九日法相、法制審議会に少年審判手続規定の改正を諮問、一二月、法制審議会少年法部会、手続の抜本的見直し答申案を決定
二〇〇〇年
一一月二八日 少年法等の一部を改正する法律成立
二〇〇一年
四月一日 改正少年法施行