MOTアニュアル「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」
MOTアニュアル「私の正しさは誰かの悲しみあるいは憎しみ」
4つのエリアで構成される展示は、其々一人のアーティストが手がけている。1-4までナンバリングされた展示のうち、特に1と3では「表現の可能性」が、2と4では「マイノリティの目線」がテーマにされていたように感じた。巡った順番に、感想と考えたことを記述する。
2は相模原障害者施設殺傷事件を題材にした作品の展示。相模湖という地の文脈を下敷きに、優生思想と障害者自身の権利獲得の歴史が表裏一体に展示される様に、両者が厚いガラスの表と裏から対峙しているような感覚を得た(実際は薄い紙が貼り合わされた構造で、互いの歴史が透けてみえるようになっている)。障害者自身の目線を追求しながら、それでも互いにみえている世界が異なるという結論が提示される。みえている世界が異なる中でわれわれはいかに理解を深められるだろうかと考えた。
3では薄暗いなかで回廊状にアーティスト本人の過去作品が並べられ、さもコラージュのような様相であった。過去の異なる表現が新たな文脈で提示されるなか、全作品の意味合いを十分に理解することは自分にはできなかったが、空間をダイナミックに使った展示と通底するそこはかとない生活感に圧倒的なインパクトと鮮烈さを感じた。意図とは異なるかもしれないが、過去積み上げてきた表現や経験を新たな文脈で結びつけることは十分に可能だという、表現と認識の可能性を感じる空間であった。
4では打って変わって明るい空間に、スライドプロジェクションの「ガシャッ」という音に合わせて静止画が切り替わっていく映像作品が中心となっている。言葉の発音によって人々が差別されてきた歴史を振り返り、差別の象徴といえるフレーズをあえて悔恨の象徴としてリフレーミングして持ち歩くという行動を提起する。言葉の発音という境界を同質・異質の境界と合致させて差別するのは、レイシズムの象徴的な表出の仕方であると実感した。また、ここでいう「言葉の発音」を「ある文脈への適合」と拡張して捉えると、コミュニティ同士の不寛容やいじめ、職業差別など問題を拡げて捉えられると考えた。
1では52分間の映像作品が上映される。画質や尺の長さから、さながら短編映画を見ているような感覚になる。映像の中ではアーティスト本人がかつて記述した(かなり)パーソナルな日記を、ラッパーのFUNIの協力のもとで音楽に昇華しようという営みの過程が記録されている。言語化した瞬間にこぼれ落ちてしまうことがある一方で、言語化することで感情を捉え直すこともできると考えた。また、舐達麻のBADSAIKUSHが以前ライブで「芸術をするという行為は全人類がした方がいい」と発言していたことに近いが、自分の感情を映し出す鏡のような存在として創作ー芸術を定義して実践するという行為が生きるうえで重要だと、改めて実感した。
全体を通じて。各アーティストの本気が伝わる、骨太な表現に恵まれる時間だった。題材としては社会的なものから個人的な表現に至るまで幅広く、表現の幅も多様であり新鮮な視点に富んでいた。