This is Water
大学のような場所で得られるはずの本当に重要な思考教育は、実際には「考える能力」ではなく、むしろ「何について考えるかを選択する能力」にある
自分というレンズを通してすべてのものを見て解釈するという、私の生まれながらにして鍛え上げられた初期設定を、何とかして変えよう、解放しようという私の選択の問題なのです。このように自分の自然な初期設定を調整できる人は、しばしば「well-adjusted(よく適応している)」と表現されますが、これは決して偶然の言葉ではないと私は思います。
このアカデミックをたたえる雰囲気の中では少し言いにくいのですが、“初期設定を調整する”という作業に、実際の知識や知性がどれだけ関わっているのか、という疑問があります。この疑問は非常にやっかいです。おそらく、アカデミックな教育の最も危険な点−少なくとも私自身の場合に起こりがちであったこと−は、物事を過剰に知的に捉え、頭の中で抽象的な議論に没頭する傾向を許してしまい、目の前で起こっていること、自分の中で起こっていること、に注意を払うことを怠ってしまうことです。