レオ・ベルサーニ
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レオ・ベルサーニが本書第二章「恥を知れ」の中で示した、ベアバッキングと呼ばれる、HIVに感染することすら厭わず性行為を行うゲイたちによる過激な自己破壊的行為を分析する。 生き残るもの―生きるもの―は、何人かの男の病気と死の行為者(エージェント)である。ネコは、乱交騒ぎのさなかに彼を犯している人々からも、またアナルに注がれる精液の廃棄用容器に精液を提供してきたすべての人々からも精液をうけとる。だがそれだけではない。そこにまたある種のコミュニケーションが生じてくるのである。それは、心理学的にも生理学的にも明確化できないであろうが、彼がセックスした男性にウイルスを与えた男性たちとのコミュニケーションであり、同様に、律儀にもタッパーの容器に精液を集めた男性たちとのコミュニケーションであり、かつ、これらの「親しい」感染者にウイルスを与えた感染者とのコミュニケーションなのである。さらにそれは、HIV感染者の系譜の最初の感染者からひきつづく前世代のすべての人間とのコミュニケーションであるかもしれない。
死の欲動と未分化となったエクスタシー=陶酔の只中において、死のミームを伝え合い、共有し合う、匿名的で非人称的な他者たちによる「親密性」の領野が開かれる。そこでは自己同一性は解体され、親族関係とも無関係な、死のウイルスを媒介とする無名の生者と死者たちによる系譜が形成される。ベルサーニは次のようにも述べている。 つまり、異性愛的な文化が、関係性に関する至上の価値をカップルに与えるのに対し、ここでは非人称的な親密性という、ひとつのコミューン・モデルへと向かう可能性がみいだされてくるからである。