ニュッサのグレゴリオス
371『処女性について』
二重創造説に基づくキリスト教的反出生主義
最初に創られた人間とはどのような者であったろうか?死した皮衣など身に付けておらず、神の顔を恐れることなく目にし、味覚や視覚によって美を判断することもなく、ただ主にのみ喜んだ。そして与えられた助け手〔イヴ〕の用い方としては、楽園から追放され、彼女が欺かれて陥った罪の代償として陣痛という罰を科せられるまでは、彼女を知ることはなかった。しかし〔堕罪という〕この連関によって、われわれは祖先〔たる一人の人間〕から切り離され、楽園から追放された。だが今や同じ連関によって、われわれはかつての至福へともう一度疾走することによって到達することができる。その連関とは何か。楽園追放のとき、罠によって快楽が入り込んで堕罪を先導した。しかるのち羞恥と恐怖とが快楽の情動に随伴し、もはやそれ以降人間は創造者の目のうちに敢えて入ろうとすることなく、木の葉と陰とによって覆いを身にまとうこととなった。かくして人は、この病的で労多き場所に居留者として送り込まれ、この土地では婚姻が死に対する慰めとして考えつかれた…
上記は次著で唱えられる「二重創造説」を並行させることで更なる理解へと進むことができる。「聖書はこう述べている。「神は人間を創った。神の像として人間を創った」と。像として創られたものにはその目標がある。次いで聖書は創造に関する補足を付け加えてこう述べている。「彼らを男と女に創った」と。男性・女性という差異は、最初に創られた人間に関しては考えられないことがらであるということは、どんな人にも明白なことであろう。なぜなら「キリスト・イエスのうちには男も女もない」と使徒が述べているからである。しかし現実に御言葉は、人間がこの二性に分かたれていると語っている。よって人間の本性の創造には二種類があったことになる。つまり神性に似せて為された第一の創造と、男女の性差に分かたれて行われた第二の創造である」。二重創造説とは前述されたように、神の像としての第一段階と、それが男女に隔たれる第二段階である。ここから理解されるように、グレゴリオスは、神の像として創造された第一段階の人間は、堕罪とともに男女の性別に目覚め、それによって楽園からの追放と死が人類に入り込んだ第二段階へと移行すると理解している。
肉体的に子孫を残すことは人類にとって、生命のではなく死の端緒となる。なぜなら腐敗はその端緒を誕生から得るからである。処女性によってその腐敗を断つ人々は、自らのうちに死の限界を設け、死がそれ以上進み行くことを自ら阻むことになる。(...)であるからもし死が処女性に打ち勝つことが不可能であり、処女性において死が止み滅ぼされるのであれは処女性が死に優っていることは明確である。そして滅び行く生命への奉仕に力を貸すことなく、死の連続を受け容れる器官とならないような肉体は〈不滅の〉ものと呼ばれるのが相応しい。というのもこの肉体においては、滅びと死をめぐる連関の連続性が断ち切られているからである。この連続性とは、最初に創られた人〔アダム〕から、処女性における生〔マリア〕までの中間を形成していたものである。なぜなら婚姻によって人間的な誕生が行われている限り、死は決して止むことがないからである。
原罪に始まる第二段階は、男女を隔てることで生殖を育む。しかし悲劇的なことは原罪とは誕生と同時に科されることに他ならない。すなわち原罪や死に代表される悲劇は、生殖によって再生産されるのであり、処女とはその悲劇の連鎖を絶ちきることができる。よって理想とされるは、アダムにはじまり、マリアに終わるその過程にある。
こうして〈生殖〉のメカニズムは、腐敗を次世代へ継承=再生産し、新たな死を育む行為であることが明らかになった。その意味でグレゴリオスは「肉体的に子孫を残すことは人類にとって、生命のではなく死の端緒となる」とするのだ。また、そうした再生産の連鎖を断ちきることは「処女性」によって可能になるのであり、処女こそ死への勝利に他ならないのである。こうしてグレゴリオスは下記のように帰結する。
神が死を創ったのではなく、ある意味で人間が悪の創造者となったのである