ディケンズ
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マーレイの亡霊
マーレイの死については、一点の疑いもない。このことをはっきりと了解していてもらわないと、これから話そうとすることが何の不思議でもなくなってしまう。ハムレットの父親があの劇の始まる前に死んでいたということを、我々がじゅうぶんにのみこんでいなかったなら、その死んだ父親が毎晩、東風に吹かれて自分の城の城壁を散歩したことも、どこかの中年紳士が臆病息子の度肝を抜くために日暮どきのそよ風に吹かれながら―たとえばセント・ポール寺院の空地へでも―ふらふらと出て行ったのと一向に変わりはないことになる。 「お前は私を信じないね」と幽霊が言った。「信じないよ」とスクルージは答えた。「お前の感覚よりほかに私の実在を証明するものはないじゃないか」「分からないね」とスクルージは言った。「お前さんは何だって自分の感覚を疑うんだ?」「感覚なんてものは、ちょっとしたことで狂うからさ。ほんのちょっと胃袋のぐあいがわるくても、感覚が狂って来るよ。お前さんは、こなれきれなかったひときれの牛肉かもしれないし、一たらしのからしか、一きれのチーズか、なまにえのじゃがいも一個かもしれない。いずれにしてもお前さんは墓よりも肉汁の方に縁がありそうだよ」とスクルージは言った。 そして幾つもの「鎖」を纏ったマーレイにスクルージは「どういうわけか」と問う。
「これは生きている時に自分で作った鎖なんだ〜鎖の環の一つずつ一つずつ、一ヤードまた一ヤードを、我とわが手で作ったのだ。私はその鎖を自分から進んで身に巻きつけたのだ。自分で好んで身にかけたのだ。〜それともお前さんは自分で巻きつけている頑丈な鎖の多みと長さを知りたいのかね?七年前のクリスマス・イブにはお前さんのも私の鎖と同じほどの重さであり、長さも同じだったが、あれから引続きせっせと骨折って太くしているんだから、今では途方もなく大きな鎖になってることだろうな!」スクルージは自分が五十フィートも六十フィートもある鉄の鎖で巻きつかれているのではないかという気がして、自分の周囲の床の上を見まわした。〜「だが、ジェイコブ、お前さんは商売上手だったじゃないか」スクルージはどもり気味に言って、言いながらこれを自分に当てはめて考え始めた。「商売だって!」幽霊はまたもや手をもみしぼりながら叫んだ。「人類のためにつくすのが私の商売だったのだ。公益が商売のはずだったんだ。慈善、あわれみ、寛大、慈悲、これがみんな私の商売だったはずだ。私のやってた取引なんかはこういう仕事の大海の中ではわずか一滴の水にも足りなかったんだ!」
第一の幽霊
スクルージは第一の幽霊に連れられて、若い頃「奉公」していたフェジウィグの商店に向かう。そこではクリスマスパーティが行われていた
「やれやれ、おまえたち!」とフェジウィグが言った。「もう今夜は仕事はしまいだ。クリスマス・イブだ、ディック。クリスマスだよ、エブニゼル!戸を閉めてな」〜片付けろ!フィジウィグ老人の監督だったら、何一つでも片付けずにおくものはなく、片付けられないものはない。一瞬のうちにできあがった。動かせるものは何でもみんな、もう永久に用はないというぐあいに片付けてしまい、床は掃いて水を撒き、ランプの掃除もできあがり、炉には薪を重ねた。店は冬の夜には申し分のない、暖かく清潔な、明るいダンスホールになった。はいって来たのは、楽譜を持ったヴァイオリン弾きだった。あの高い机のところへあがって行って、そこをオーケストラ・ボックスにして、五十人の胃痛病みがうめくような音を出して調子を合わせた。そこへ満身これ笑顔と言いたいようなフェジウィグ夫人があらわれた。フェジウィグ家の美しく、愛らしい三人の娘たちも出て来た。そこへこの三人の娘たちのために失恋の憂きめにあった六人の若者もはいって来た。この店に雇われている若い男女もみんなやって来た。女中は従別弟のパン屋同様で来たかと思うと、料理女は自分の兄弟の親友の牛乳配達と連れ立って来た。向側の家の小僧もやって来た。この小僧は主人から食物もろくろくあてがわれないのではないかと思われる様子をしていた。小僧は一軒置いて隣りの家の女中の背後にかくれようとしていた。この女中は女主人に耳を引っ張られてばかりいた。次から次とみんな寄って来た。恥ずかしそうにしている者、威張っている者、しとやかな者、無器用者、押すものがあれば引っ張る者もある。が、とにかく、どうにかしてみんなはいって来た。みんな揃って、二十組がいちどに踊りだした。半分ほど回って、反対回りで戻って来る。部屋のまんなかまで行くかと思うとまた引き返して来る。仲のよい組合せがいくつもできて、くるくると踊っていた。前の先頭組はいつもまちがった所で曲ってしまう。新たな先頭の組はそこまで行くやいなや、これも横へそれてしまう。遂には、どれもこれも先頭組になってしまって、しんがりをつとめる組は一つもな始末―こんな有様になった時、老フェジウィグは手をたたいてダンスをやめさせ、「上出来!」と叫んだ。ヴァイオリン弾きはほてった顔を、用意されてあった黒ビールの大ジョッキの中へ突っ込んだ。けれども顔を離すと直ぐにまた弾き始めた。休息の必要など無視して、まるで前の弾き手は疲れきって戸板に載せられて送り返され、自分はまったくの新手で、さっきのよりもずっと優れた腕前を見せるか、さもなければ解れるまでだと意気込んでいるようだった。踊りはまだ続いた。それから罰金遊びがあり、また踊りが始まる。菓子やニーガス酒、ローストビーフやハムやミンス・パイやそれにビールもふんだんにあった。けれどもその夜の圧巻は、焼物や煮物の料理のあとで、例の弾き手が、「サー・ロジャー・ド・カヴァリイ」を弾き出した時に、フェジウィグ老人が夫人の手を取って踊り出したことだった。二人のために選んであった相当むずかしい曲に合わせて、先頭をつとめようという意気込みだった。その後から二十三、四組の踊り手が続いた。いずれもあなどれない連中だった。踊ることだけに熱中して、歩くことなんかてんで考えないのである。〜時計が十一時を打つのをきっかけにこの家庭舞踏会は解散した。フェジウィグ夫妻は入口の両側に立って、出て行く男女に誰彼の差別なく一々握手し、クリスマスの祝を述べた。みんなが去ってしまうと、夫妻は二人の小僧だけにも、同じように握手をし同じようにクリスマスの祝儀を述べた。こうして喜ばしい声々も静まり、二人の小僧たちは店の奥の獣定台の下の寝床にもぐり込んだ。
こうしてスクルージはすっかり「昔の自分」に浸る一方、現在のスクルージかのように幽霊が振る舞う。
スクルージはこの間じゅうずっと分別をすっかり失った人のように振舞っていた。彼は心も魂もこの場面に吸い込まれて、昔の自分と一緒になった。すべての事柄を確認し、すべてのことを記憶し、そして言いようもない不思議な感激をおぽえた。やがて、昔の自分ディックの晴れやかな顔が消え去った時、初めてスクルージは幽霊が自分の上にじいっと眼をすえているのに気がついた。幽霊の頭上には光が煌々と燃えていた。 「こんなばかな奴らをこんなにありがたがらせるなんて、くだらないことだ」と幽霊が言った。「くだらないって!」とスクルージはおうむ返しに言った。幽霊は二人の小僧がフェジウィグを心の底から褒めそやしているのを、スクルージに聞けと合図した。スクルージはそれに従った。 「ねえ!そうじゃないか?せいぜい三ポンドか四ポンドを使っただけじゃないか。それをこんなにありがたがられるってことがあるのかい?」「そのためじゃありませんよ」スクルージは躍起になって言った、しかも無意識のうちに現在の自分ではなく昔の自分に返って言った。「そのためじゃありませんよ、幽霊さま。あの人は私たちを幸福にも不幸にもする力を持っておいでなんです。それから私たちの仕事を軽くも重くもまた楽しくも苦しくもすることのできる力を持っていたんです。あの人の力は言葉や顔付だけのものだったにしてもですよ、それが勘定にもはいらないような、小さな事柄だとしてもですね、あの人が私たちをしあわせにしようとしてくだすった苦労は、一財産投げ出してやってくだすったのと同じですよ」 幽霊の眼がじっと自分の上にそそがれているのに気がついて口をとじた。 「どうしたんだ?」と幽霊が訊ねた。「べつだん、どうもありません」とスクルージが答えた。「何かあるだろう?」と幽霊は追及した。「いいえ」とスクルージは断言した。「どうもしませんですが、私は今、自分のところの書記にほんの一言、言いたいことがあるんです」
またスクルージ兄弟を回顧する際には「「あの娘はそよかぜにも堪えられないような弱いからだだったが、情ぶかい気立てだった〜結婚してから死んだんだね、子供があっただろう?」「一人ありました」とスクルージは答えた。「そうだった。お前さんの甥だね」スクルージは心中不安な気持ちがした。」として、「クリスマスを祝いたい一心で」クリスマスパーティに招待してくれた甥に対して「荒い言葉」で追い返したことに後悔するような示唆をする。
更に「昔の自分をあわれみ出し」、「「何でもありません。何でもないんですが、昨晩、私の家のかど口へ来て、クリスマスの歌を歌おうとした男の子があったのに、何かやればよかったと思っただけです」などとスクルージは言い、過去の自分を反省する。