シュタイナー
1925年のシュタイナー自叙伝『わが生涯』にて、本書を「人智学運動の基礎」と位置づける。
1904/5-9『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』
1905『ブラヴァツキー没後十四回忌のために』
本当に彼女の使命を深く感じ取ることができた人にとっては、そのとき自分がわれわれの偉大なこの先駆者に対してどのような態度をとるべきかが、そこから、この認識から、流れてくる。そのときにはまた、このような役割を背負った人物が、必然的に、はじめは誤解を、否、誹謗や中傷さえをも甘受せざるをえないのだ、という洞察をも学ぶのだ。誤解や中傷はこのような人物が人生に捧げなければならない供犠のひとつなのである。
1910『神秘学概論』
人間本性論
体的な次元
人間とはなにか。それを語るには第一に最も多くへと「開示された」領域、すなわち肉体から始めなければならない。そこでシュタイナーは肉体を鉱物性という側面から理解する。
「肉体」という概念に光を当てるためには、大きな謎となって人生全体を蓋っている「死」の現象に先ず注目しなければならない。そしてさらにこのことと関連して、常に死の状態にある「生命のない自然」、つまり鉱物界にも注目しなければならない。(...)開示された世界の内部で言えば、つまり人間の物質体とは、人間が鉱物界と共有する部分のことである。これに反して、人間を鉱物から区別するところのものは、肉体以外の人間本性である。とらわれずに考察するとき、特に重要になるのは、人間が死ぬと、人間本性が鉱物界と同じ在り方を示すようになることである。死体とは、鉱物界での諸経過にゆだねられた人体部分のことである。人間本性の肉体部分には、鉱物界におけるのと同じ素材の力が働いているが、死にいたらなければ、肉体が崩壊することはない。肉体には鉱物界におけるのと同じ素材の力が働いているのに、その力は、生きている間、より高次の目的に仕えている。死が生じたときになって、はじめてその働きは、鉱物界の働きになる。肉体の素材と力は、そのとき、肉体の形態を解体させるが、それはみずからの本性に従った働きなのである。このように、人間の開示された部分と隠された部分とをはっきり区別しなければならない。実際、生きている間は、隠された部分が肉体の鉱物的な素材の力に抵抗して生き続けなければならないのだが、この抵抗がやめば、鉱物本来の力だけが作用しはじめる。
唯物論の頂点たる現代の自然科学、彼らにすれば「肉体だけが考察の対象になるが、これは超感覚的認識の立場から言えば、人間本性の単なる一部分にすぎない」。ではこの「肉体以外の人間本性」とはなんたるか。例えばプラトン的な霊肉二元論の立場をとるならば肉体に対置されるそれは魂であり、後世に精神と呼ばれた地平にある。しかし、これらは不可視である。ゆえにシュタイナーは肉体を人間本性の「開示された部分」へと位置づけ、これに対置させる形で人間本性の「隠された部分」を訴えるのだ。そして後者を明らかにしようする学こそシュタイナーの理論であり、「ここに超感覚的な事象を科学するときの出発点が存する」。
この科学は、何が今述べた抵抗を遂行するのかを探求するが、その探求の対象は、まさに感覚的な観察には隠されており、超感覚的な観察だけがそれを可能にするのである。どのようにしたらこの「隠されたもの」が開示されて、通常の眼にとっての感覚的諸現象のように、現れるのかは、後の章で述べるつもりである。
では一体肉体に対置される人間本性の「隠された部分」とはなにか。「生きている間、物質の素材と力に、肉体を崩壊させないように働きかけているものは、「エーテル体」または「生命体」と呼ばれる」。粗雑に整理するならば現代の唯物論的自然科学が扱うは「死の状態にある「生命のない自然」」なのであって、シュタイナーはここに超感覚的な手段でもって生命を宿すことを試みるのだ。すなわち無生命性〔=無生物性〕こそ、シュタイナーが鉱物性と呼ぶものである。ここに彼の現代科学へ向けた批判的立場が確立される。
超感覚的な事象の記述が、この「エーテル体」または「生命体」に及ぶと、現代の観点からではどうしても矛盾に陥らざるをえないところにきてしまう。現在の精神段階においては、人間本性のこの分肢に話が及ぶと、人はそれを非科学的なことだと思ってしまう。現代の唯物論的な立場は、生命のある身体の中にも、無生物としての鉱物の中に見出せる物質素材とその働き以外のものを見ようとはしない。生物の組織は、ただ無生物の組織よりも複雑であるにすぎないというのである。通常の科学は、以前、まだそれほど遠い昔でなくても、別の観点に立っていた。十九世紀前半のすぐれた科学者たちの論文を読むと、当時は、「真の自然研究者」も、生命のある身体の中には、生命を持たぬ鉱物の中に存在していない何かがある、と考えていたことに気がつく。当時はそれを「生命力」として論じていた。たしかにその「生命力」は、ここで「生命体」と名づけているもののことではなかったが、当時の考え方の根底には、そのようなものが存在する、と予感していた。当時は、ちょうど磁力が鉄に対するのに似た仕方で、「生命力」が物質の素材やその働きに対して作用を及ぼすのだと考えていた。その後、このような「生命力」は科学の分野から追放され、すべてを単なる物理・化学上の原因で説明しようとする時代になった。現代になると、少なからぬ自然科学者たちは、再び、「生命力」のような概念を仮定することが、まったくの無意味であるとは言えない、と考えるようになった。けれども、そう考える「科学者」も、「生命体」に関する本書の立場に同調しようとはしないであろう。超感覚的な認識の観点に立って、このような立場の科学者と議論しても、概して何の成果も得られないであろう。むしろ、唯物論的な考え方が、われわれの時代における自然科学の偉大な進化にとって必要だったのだ、と考えることの方が、超感覚的な認識の立場には、よりふさわしいといえよう。自然科学の進歩は、感覚的な観察手段を無限に洗練させていく。人間は進化の過程で、そのつど、ある能力を、他の能力の犠牲の上に、より完全なものにしていく。このことは、人間の本質に基づいている。厳密な感覚的な観察は、自然科学によって重要な発展を遂げたが、そのために「隠された世界」へ導く能力の育成を犠牲にしなければならなかった。しかし、この能力の育成を必要とする時代が、今再びやってきたのだ。とはいえ、隠された世界をあらかじめ否定した上で、論理的な首尾一貫性をもって行われる自然科学の判断を、今どんなに批判したとしても、それによって隠された世界が一般に承認されるわけではない。隠された世界に光を当てることによってのみ、承認されるようになる。そのとき、「時が来た」と信じる人びとがそれを承認するであろう。「エーテル体」をまったく空想の産物であると思っている人びとがいる現在、それについて語ろうとすれば、それを自然科学に無知な人間の主張だと決めつける人が出てくるのは当然である。だからこそ、以上の点を述べておかなければならなかった。
シュタイナーは「生命力」について、自著『神智学』にて詳細に論じた。ゆえに上記についての論述は前傾書を参照されたい。
ではこうした生命なき自然に命を吹きこむエーテル体とはどんな役割を成すのか。第一にそれは命あるものすべてに存在するものであり、動物は勿論のこと植物もである。そして第二に鉱物的な肉体を繋ぎ合わせ、鉱物的、換言するならば静的な諸器官に言葉の如く命を宿すのだ。すなわち鉱物的な諸部分はエーテル体を通して有機性を帯び、一つの生物としての体を獲得するのだ。ゆえにシュタイナーは云う。「エーテル体がもはや保持しえなくなった肉体は、崩壊する」。
先ず、エーテル体が肉体のいたるところに浸透しており、肉体に対して一種の建築家のような役割りを演じていることを、強調しておきたい。身体器官の形態のすべては、エーテル体の流れと動きによって維持されている。心臓は「エーテル心臓」に基づいている。そして脳は「エーテル脳」に基づいている。 エーテル体は肉体同様に分節化されているが、肉体よりももっと複雑に分節化されている。肉体においては、各部分が互に区別されているのに対して、エーテル体においては、すべてが互に生きいきと融合し合っている。 人間は、肉体を鉱物と共有し、エーテル体を植物と共有している。すべて生きものは、みずからのエーテル体を持っている。
こうして人間を構成する二つの本性を理解してきた。しかしここで疑問が生じよう。それはなぜ生命を宿すエーテル体は動物とではなく、植物と共有されているのか。これを明らかにするのかシュタイナー的人間本性論の第三の機能。アストラル体である。そしてそこで問題とされるは、意識の有無に他ならない。
超感覚的考察は、エーテル体よりもさらに高次の人間本性に向かう。この本性部分をイメージするためには、先ず眠りの現象に眼を向ける。エーテル体の場合に、先ず死の現象に眼を向けたようにである。 通常の意識に開示されたものを考察する限り、人間のすべての創造活動は、覚醒時に行われている。しかしこの活動は、消耗した力をそのつど繰り返して睡眠から補充するのでなければ、継続していくことができない。睡眠中は行動もしないし、思考活動もやめる。すべての苦しみ、すべての楽しみも、意識の中から消えてしまう。しかし目が覚めると、隠された秘密の泉からのように、意識の力が、再び、睡眠の没意識状態から立ち現れる。眠るときに暗い深みへ沈み、目覚めるときに再び立ち現れてくるのは、同じ意識なのである。 繰り返して没意識状態から意識を目覚めさせるのは、超感覚的な認識の意味では、第三の人間本性である。それはアストラル体と呼ばれる。鉱物素材やその働きだけでは、肉体の形態を維持することができず、そのためにはエーテル体の働きがなければならないように、エーテル体の力だけでは、みずからを意識の光に照らし出すことができず、絶えず睡眠状態に留まり続けなければならない。エーテル体は、肉体の中で、ただ肉体の植物状態を維持することができるだけである。エーテル体が目覚めるのは、アストラル体の照明を受けたときである。このアストラル体の働きは、人間が眠りに落ちたとき、消えてしまうように見えるが、超感覚的に観察すれば、その場合も存在し続ける。ただその場合のアストラル体は、エーテル体から離れて、またはそこから抜け出て、存在しているのである。 感覚的な観察は、アストラル体そのものを対象にすることはできず、ただ開示されたその作用だけに関わることができる。しかしその作用は、睡眠中には現れない。人間は、肉体を鉱物と共有し、エーテル体を植物と共有するが、それと同じ意味で、アストラル体を動物と共有している。 植物は常に睡眠状態にある。このことが正しく判断できなければ、植物も覚醒時の人間や動物と同じ意識を持っている、と誤解してしまうだろう。しかしそれは、意識について不正確な考え方をした結果にすぎない。植物が外から刺激を受けるとき、動物と同じような反応を示すことがある。たとえば外から刺激を受けた植物が、それによって葉を閉ざすとき、そのような植物には感覚が働いている、と人は語る。けれども、ある存在が外からの作用を受けて、一種の反応を示す、ということが意識の特徴なのではなく、その反応に際して、新たに何かを内的に体験する、ということが意識の特徴なのである。もしそうでなければ、鉄板が熱せられて延びるときも、それを意識の働きに帰してしまうことになりかねない。ある存在が熱せられたとき、内部に痛みを感じたとすれば、そのときはじめて、意識の存在を語ることができる。
植物と動物。エーテル体とアストラル体の機能的差異はここに生じる。器官が接続され、肉体が有機化されようと、そこに意識は存在しない。それはまさに、人間における植物状態が肉体的に有機的であれど、常に死んでいることに同義とされるは意識の有無に他ならない。植物的な生命に覚醒をもたらす存在こそ、アストラル体である。この地点にて我々は肉体の素材、生命、意識が与えられた。しかしそれは動物全種に通ずるものである。したがって、第三の本性までしかもたないのであれば、我々と動物は区別できない存在であるのか。否。それを区別するが、ばらばらの記憶に統合機能を持たせる「自我」。超越論的統覚にも類するシュタイナー的自我論である。
超感覚的な認識が人間の中に認める第四の本性は、もはや開示された周囲の世界と何かを共有していない。そしてそれこそが、人間を他の自然存在から区別するものであり、それによってこそ、人間は「万物の霊長」なのである。超感覚的な認識によれば、人間は覚醒時に、アストラル体と本質的に区別されうる、別の本性の働きを受けている。覚醒時の人間は、現れては消える体験だけでなく、持続的な体験を持つが、このことに注意を向けるなら、この二つの本性の働きの相違が、直ちに明らかとなる。人間の体験を動物の体験と比較すれば、このことが一層明らかになる。 動物は、規則正しい仕方で、外界の影響を受ける。そして暑さや寒さ、快や苦の体験を通し、規則的に繰り返される餓えや渇きの体験を通して、みずからを意識する。人間の生活は、このような体験だけでは汲みつくされない。人間の所有する欲望や願望は、これらのすべてを超えて働く。動物の場合、必要なだけ深く考察するならば、その行動や感情への誘因が、体外または体内のどこにあるかを、はっきり明示することができるであろう。人間の場合は、決してそうならない。人間の場合、欲望や願望の誘因を、その体内にも体外にも見出すことができない場合が生じうる。その場合には、特別の源泉を見出さなければならない。そのような源泉は、超感覚的な認識の意味で、人間の「自我」の中に見出すことができる。それゆえ、「自我」は第四の人間本性であると言える。 アストラル体がみずからを自由な状態に置けば、快と不快、餓えと渇きがそこに現れるであろう。しかしその場合は、これこそが持続的なものだ、という感情は現れない。その場合、持続そのものではなく、持続を体験するものが「自我」なのである。 この点での誤解を避けるためには、概念を明確にしておかなければならない。「自我感情」が目覚めるのは、変化する内的な諸体験の中に、持続的なものを認めるときなのである。たとえば、餓えを感じることが、人間に自我感情を呼び起こすのではない。餓えの誘因が生じるたびに、そのつど餓えの感情が現れ、それゆえに、人は食卓に向うが、その場合自我感情が現れるのは、餓えの誘因が人を食事にいざなうだけでなく、以前の食事のときに味わった喜びが、快の意識として持続しているときである。それゆえ、現在の餓えの体験だけでなく、食事に際しての過去の快の体験がそれと結びついて、自我感情を生じさせる。 エーテル体がもはや保持しえなくなった肉体は、崩壊する。アストラル体が明るく照らさないエーテル体は、没意識状態の中に沈み込む。そして「自我」が過去を現在の中に取り込むのでなければ、アストラル体だけでは、過去はそのつど、忘却の中に沈まなければならないであろう。肉体にとっての死、エーテル体にとっての眠りは、アストラル体にとっての忘却に対応する。エーテル体にとっては、生命が固有のものであり、アストラル体にとっては、意識が固有のものであり、そして自我にとっては、想起が固有のものなのである。 植物に意識があると思うよりも、動物に記憶力があると思う方が、一層容易かも知れない。長い間別れていた主人に再会したときの犬の態度は、犬の記憶力を容易に想定させる。しかし、この場合の犬の再認識は、記憶力によるのではなく、それとはまったく別の働きによるのである。犬がその主人に強い結びつきを感じるとき、その結びつきは主人の存在によって生じる。主人が眼の前に現れたとき、主人の存在が犬に快の感情を生じさせる。主人が眼の前に現れるたびに、そのつどその存在が快の感情を新たに呼び起こすきっかけとなる。しかし記憶が存在するのは、現在の特定の体験を感じるだけでなく、過去の体験を保持しているときなのである。 このことが承認できたとしても、なおかつ犬に記憶力があるという誤謬に陥るかもしれない。なぜなら、主人がいなくなったときに悲しむ犬の様子を見ると、主人を記憶しているかのように思えるからである。しかしそう考えることも間違っている。主人との共同生活を通して、犬には主人の存在が不可欠になっている。だから餓えを感じるのと似た仕方で、主人の不在を感じるのである。こうした区別をしない限り、人生の本質を洞察することはできない。 動物に人間と同じような記憶力がそなわっているかどうかを知ることなどできない、というのは、偏見である。こう考えるのは、観察が不十分だからである。動物が体験を通してどのような態度を示しているかをよく観察してみれば、人間と動物における体験の仕方の違いに気がつくであろう。動物の態度は、記憶が存在していないことをあらわしている。超感覚的な観察は、このことを直接感得するが、超感覚的な観察によらなくても、動物の態度を見れば、感覚的な知覚とそれに基づく思考とによって、同じ結論に至ることができる。(...)「自我」にとっての記憶と忘却は、アストラル体にとっての目覚めと眠りの場合によく似ている。眠りがその日の心配事を無の中に消し去るように、忘却は人生の悪しき経験の上にヴェールをひろげ、それによって過去のある部分を消し去る。また、消耗した生命力を新たに補充するためには眠りが必要であるように、新しい体験と自由に向き合うためには、過去のある部分を記憶から消し去らねばならない。忘却からこそ、新しい何かを学ぼうとする力が生じてくる。書き方を学ぶときのことを考えてみよう。書き方を学ぶためにやってきたことの一つひとつを覚えているわけではないにもかかわらず、書く能力があとに残る。人間が筆をとるたびに、書き方の勉強をしたときのすべての体験を魂の中に甦らせるとすれば、何も書くことができなくなるだろう。
動物には意識が存在するが、それは接続されておらず、すなわち記憶の形象には至らない。なぜならば動物は刹那的に各事件に触知するだけであり、暫時的に意識は顕現するがしかし、「アストラル体だけでは、過去はそのつど、忘却の中に沈まなければならないであろう」。しかし、自我は過去の意識を「想起」させる。それはまるで超越論的統覚が如く、分裂された単一の経験にそれを体感した主体を位置づけることで、それらをまとめあげ、記憶という連続的な形象へと練り上げるのだ。こうして人間には過去が生まれ、自我という統合機能を通してそれを想起するのである。
魂的な次元
1921『色彩の本質』
物理学的色彩論の限界
この三日間に取り上げる色彩の問題は物理学者の研究分野でもありますが、物理学の問題について語るつもりはありません。
そしてその理由を「物理学者が問題にする客観的な色彩世界の認識」は「芸術」に最も反するパースペクティブだからである、とする。そこでシュタイナーは現代の物理学的色彩論を紹介すると共に、それらの見解を批判する。
色彩とは、客観的に言えば、エーテルと呼ぶ精妙な素材のある種の波動でしかない、と考える習慣、あるいは悪習慣が長い間支配していました。(...)こういう定義を好む人は、色彩の印象、色彩の体験がなんらかのエーテル運動と係わりがあるという考え以上に出ることはできないでしょう。色彩の質を問題にしようとしても、主観的な印象だけしか問題にすることができません。そこから更になんらかの客観的なものを求めようとすれば、色彩からますます離れていってしまいます。なぜならそこで考えられるエーテル振動の中には、私たちの色彩世界が全然含まれてないからです。
こうした見解をもつからこそシュタイナーは「今日の人間は、私がこれまでにもしばしば引用してきたゲーテの言葉「自然がその明らかな秘密を打ち明け始めるとき、人は自然の最も相応しい解説者である芸術への抑えがたい憧れを感じる」この言葉から遥かに遠くまで離れてしまっている」というのだ。シュタイナーは続けて「色彩の本質の中に入っていこうとする時には、私たちは色彩から何かを感じる」と論じている。これを先程のゲーテの引用に即して論じるなら、主観的色彩に基づく体感にこそ「自然の最も相応しい解説者である芸術への抑えがたい憧れを感じる」のだ。
1924/9/8~18 『医師と聖職者の協働』
宗教治療(Pastorakmedizin)という言葉そのものがこんにち、本当の意味を失ってしまっています。(...)これとは逆に、現代という時代の根底から、ひとつの非常に重要な課題が現れてきています。この課題からすれば、現代は宗教治療を必要としていると言わざるをえないのです。(...)この場合大切なのは、神学の側からも医学の側からも、新しい宗教治療を創る意味で、神学者と医師が一緒に働くことがどうすれば可能かを考えることです。
そしてシュタイナーはいう「まさに人智学運動がそういう共同作業を考えなければならない」。
私たちの文明の内部では、医療は霊的なものから離れてしまい、そして神学においては具体的な方法から離れてしまっています。私たちの文明の内部では、医療は唯物主義の中にさまよい込み、神学は抽象の中にさまよい込んでいますから、こんにちでは真の関係がまったく覆い隠されているのです。しかし、この真の関係がふたたび探求され、生きた関係となって甦らなければなりません。医者が診断を下すとき、生体内での生理的・物質的経過を霊的経過の光の下に見ることができなければなりません。実際、人体内のすべての経過は霊的なのです。ですから、医者はすでに診断に際して、特に治療に際して、身体内での霊的な働きを訓練された眼で見ることができなければならないのです。一方、祭司は、霊的な経過が物質界にどう現れているかを訓練された眼で見ることができなければなりません。これも両極的です。しかしこの世での両極は、常に相互で働き合わなければなりません。この場合の両極も、共同して働かなければならない。どのように共同で働くべきなのか、それはまさに人智学が探求すべき課題です。人智学こそがその探求を成就させなければならないのです。ですから愛する皆さん、医師と聖職者のためのこの講座での共同作業から未来のために、霊界と自分との関係から祭司に対して正しい関係がもてる人智学的な医師が育てられねばなりません。同時にキリスト教革新運動から育った祭司が必要なのです。医師と祭司の両方にとって、まったく特別のことが今始まるのです。そして、この講座から正しい共同作業が生じなければならないのです。(...)まさにこういう共同作業を通して、文化のためにもっとも重要なことが成就するのです。(...)この医師と祭司が教師と共同で働くとき、それによって人類に救済となる働きが生じうるのですが、それが私たちの次なる課題になるでしょう。このことは私たちの特別重要な使命になるでしょう。
1925『アントロポゾフィー医学の本質』