シモーヌ・ドゥブー
『愛の新世界』の再発見者。
1978『フーリエのユートピア』
https://scrapbox.io/files/66518ca7de7ded001dc42894.jpeg
フーリエ概論
情念引力論への手引き
フーリエはこれまでの学者が「本末転倒を犯して」きたという。「彼らは身体の運動は研究したが、魂の運動は無視してしまった」のだ。そこで彼がもちだすのが情念引力なのである。
たしかに、新世界にとって物質的な豊かさは必要である。だがそれだけでは十分ではない。はるか昔の先史時代は、ただ経済的なだけではなく道徳的な時代でもあった。人間は「動物のように固定した本能をもっていない」。(...)一面的な発展が極端に進んだ結果、一方での社会生活の単調さ、個人の単純化と、他方での科学の物質的力とのあいだの不均衡ははなはだしいものとなっており、「調和社会への移行という試練に同意しない限り、われわれの地球は差し迫った危険にさらせれている」。(...)「およそ情念に関わる事柄についての学者たちの根深い無知を想起するにつけ、私は、彼らが手にした物質的な面での他の成功を斟酌しないわけではないが、彼らの精神を社会的変容への希望と展望に親しませ、情念の計算はこれまで誰も入り込んだことのない新しい世界であるということを納得させたいと思う」。というのも、人類は、克服し難い困難、つまり産業の不在、人口密度の過小という(...)物質的な障害に打ち勝つことが必要だった。だがいまや、自然に具わっている天才を取り戻すこと、この千年にわたる努力を通じて、魔法でもかけられたように歪められてしまったさまざまな志向のほんとうの意味を取り戻すことが重要となる。フーリエはこうした解読作業、人類規模での精神分析に着手するのである。
ではかれはいかに精神の本質を暴いたのか。ドゥブーは次のようにいう。
いつも捩じ曲げられ、覆い隠されてしまっている源泉は、われわれの情念的自然=本性である。(...)彼が調和させようと望む諸情念とは、意識の実在的内容、感情の状態ではなく、方向をもった運動、志向である。(...)したがって、われわれの魂の原動力を認識することは、一つの所与を記述することではなく、この原動力の方向性のなかに自らを置き、それが差し向けられている方向とその真理とを同時に発見することである。自分の感情状態から身を置き、その志向的内容について判断を下すこと、原初の躍動、すなわち、基本情念によってあらわされる、あらゆる存在以前の運動にまで遡ることが可能である。フーリエは、その最初の著作を『四運動の理論』と名づける。というのも、彼は、情念運動の自然への投影とも言うべきものを明らかにし、森羅万象を結び合わせている普遍的ダイナミズムを捉え直そうとするからである。
即ち、フーリエにとって情念とは、歴史までを説明する根幹そのものであり、その意味で「森羅万象を結び合わせている普遍的ダイナミズム」なのである。例えば情念という「方向をもった」、「活動性こそが最初のものであるとすれば主観や客観とは、もはやさまざまな志向の結び目でしかない」し、他にも善悪などという二元論は「原初的な自発性の、成功ないし失敗した飛躍の結果を示すものである」のだ。つまりフーリエにとって性善説や性悪説などは無意味であり、なぜならそれは情念から始まるダイナミズムの出力結果に過ぎないからだ。それゆえ次のようにいう。
だからフーリエが「問題は情念を変えることではなく、情念の飛躍の道筋や情念に与えられる糧を変えることである」と繰り返し述べるとき、彼が目指しているのは、エネルギーを有害な目標から別の有益な目標へと単に移し変えることではなく、情念の真の変容を意味するような運動の異なった方向づけを行うことである。彼は言う、「毛虫と蝶という、いつもの私の比較をここでも用いるが、真なる飛躍においては、蝶に変わって毛虫が姿を消すのと同じように、悪い成分は消え失せてしまうに相違ない」。
反デカルト的姿勢
フーリエは単なる「一時的な敵」ではなく、デカルトの徹底的な批判者である。実際に彼はデカルトを「ソフィストの君主」であるとしたうえで「方法的諸前提から『愛の新世界』の最後の項まで、また『自由意志論』という「中間考察」から『産業の新世界』に至るまで、フーリエは同じ批判を繰り返している」のだ。
フーリエは、「この二千年にわたる学問」を反駁すべきだと主張しているのであるから、彼が個人の哲学の創始者に言及することはなにも驚くにはあたらない。しかしながら、デカルトを攻撃し、デカルトが基礎づけた哲学を根本から打ち砕くという点において、フーリエは、近代哲学の祖を認めているのである。
ではこうした断固たる「デカルトの拒絶」は如何なるところから発生するのか。