もしそうであるなら、状況はまったく異なる。リビドーを持つことがあるとしても、満たされたリビドーは真の成就であり、それを越えて際限なく駆り立てられることはないのである。このことは、フロイトによるリビドーの記述は、神学的には、実存的な自己疎外にある人間の記述として見られるべきであることを意味している