この診断の重要性は過小評価されてはならない。というのも、もしニヒリズムが「単に、生理学的デカダンスの現れにすぎない」ことが明らかになるとすれば、それに従ってニヒリズムの克服の見通しは修正されなければならないからだ。ニヒリズムの生理学的ルーツが明らかになるならば、哲学もまた、まさにそのことによって、ニヒリズムを克服するための自らの力の限界を明らかにすることになるだろう。というのも、哲学的議論は生理学的デカダンスに対して力をもっていないからである