信仰経済論のプロット
我々はBlind Plutusの名の下、資本主義というTyrantに抗うための解放の武器を探す旅に出た。そして、その長き巡礼の果て、我々を待っていたのは、信じる心とその思いが力となる理念の結晶—Securityである。かの存在こそ一神教的資本主義の夜を終幕させる黎明の光であり、信仰経済を組織し、多神教的な資本主義世界への大転換を樹立する希望の武器である。本文はCommodityからSecurityへ、その理論と未来を素描する論文である。
商品経済において、芸術家は鑑賞や実用性、あるいはファングッズに適した形態の制作を余儀なくされる。また美や主題、技法などの長き探求は阻まれ、芸術家としての使命を果たすよりも群衆を喜ばせること、本質を体現するよりも市場で自己をプロモーションすることを迫られる。同様に、学問は世紀を揺るがす発見の探究よりも、当面の実用性と経済的利益に資する研究が優遇され、社会活動家もまた、自己の使命に専念することを妨げられ、あらゆる価値を交換可能な形態へと翻訳することを強いられる。かくして商品経済の体系においては、芸術や学問、倫理などのいかなる価値も、商品という形を経なければ取引されず、利益を得ることはできない。かくして商品化があらゆる価値を市場に従属された経済的価値に還元するのに対し、あらゆる対象が持つ価値の純粋性を保ち、その本源的価値の探究に専念することによって経済的リターンを獲得できるオルタナティヴとしてのセキュリティを我々は提唱する。
セキュリティ化はその本源的価値に直接的に連動するポテンシャルをもつと我々は考える。その原理の萌芽は現代の株式制度に見ることができる。
株価は中長期でみれば売上という企業活動の本質に従事することが最も重要であり、
この構造は非経済的な領域、すなわち文学や芸術、学問などにも等しく適用可能だと我々は考える。すなわち芸術家が商品化という雑音に従属せず、自らの芸術的本質を高めることに専心するとき、その芸術家を象徴するセキュリティは、その成果に応じて価格が上下する
中長期で企業が市場的思惑に迎合せず、自らの本質的活動——製品開発、思想形成、文化的使命——に忠実であるとき、その内在的価値の成長はやがて評価として反映される。価格はその本質の鏡像として機能する。すなわち、ここでの価値は「有用性の交換」ではなく「本質への信仰」から生まれる。
この構造は芸術家にも等しく適用される。芸術家が商品化という雑音に従属せず、自らの芸術的本質を高めることに専心するとき、その芸術家を表すセキュリティは、その本質に投じられた信仰に応じて上昇する。ここにおいて経済は市場的有用性の支配を離れ、信仰の強度によって動く秩序となる。それは唯一の価値神に支配される一神教的市場ではなく、各創造者がそれぞれの価値原理を具現する**多神教的秩序(polytheistic order of values)**である。