ヴァーグナー
トーマス・マン
あらゆる芸術史のなかで最大の才能である。
1858/12/1 日記
可哀相な私は一週間まえからまたもや部屋に戻っている。しかも、今回は椅子に縛り付けられていて、そこから立ち上がることは許されず、晩には寝台へ運んでもらわねばならない。しかし、これは外面的な苦痛でしかなく、私の健康にとってはまさに肝要だとさえ思っている。これによって、今の状態は、今後、ほとんど邪魔されずに仕事にいそしんでいられると言う希望で私を満たしてくれる。これに対し、仕事を中断されることは、この前の病気の発作を耐え難いものにした最重要のものだった。ーこのような時期には私の興味は常につよく喚起される。色々な計画や企画に想像力はいたく刺激される。今回、私の心を占めたのは哲学の問題で、最近、私はわが友ショーペンハウアーの主著をまたゆっくり読み返した。そして、彼の哲学体系を拡大、いや、細部では修正する気持ちを澄しくそそられた。その対象たるや、きわめて重要なものであり、まだ私以外の誰にも開くことのなかった洞察を獲得することが、この特別な人生の時期に、私の特別な素質に留保されてあったのかも知れない。それはつまり、今まで、いかなる哲学者によっても、ことにショーペンハウアーによっても認識されていない、愛による意志の完全な鎮静への救いの道を示すことであり、愛とは言っても、抽象的な人間愛ではなく、性愛、すなわち男女の情愛と言う基盤から実際に芽生える愛である。ここで大事なことは、私が(哲学者として、但し文学者としてではない、これなら自前のものがある)そのための諸概念という道具をショーペンハウアー自身から貰って、使用できることだ。叙述は深く遠くまで及ぶだろうが、そこには、我々が理念と言うものを認識できるようになる状態の正確な説明が含まれる。また、天才の独創性の説明も含むことになるが、この独創性なるものを私は、もはや知性が意志から切り離された状態としてではなく、むしろ、個人の知性が高揚して種族を、従ってまた物自体である意志を認識する器官となった状態として、把握する。そこからまた、天才的な認識の最高の瞬間に見られる、素晴らしい忘我の歓喜と恍惚も説明出来るのだが、これをショーペンハウァーはほとんど知らないように思える。と言うのは、彼はそれらを個々人の意志の興奮が沈静し、沈黙している状態だけにしか見つけ得ないからである。上で述べた把握・理解と非常に類似しているが、私は、愛のなかに個人の意志の衝動を超越して高揚できる可能性のあることを証明できるだろう。そこでは、個人の意志の衝動が完全に制御されたあとは、種族の意志が完璧な意識となるが、この高みにあっては、それは必然的に完全な沈静と同じ意味になる。私の叙述が成功すると、こういった全ては未経験の人にも十分に理解可能になるだろう。そうすれば、その結果は大きな意義を持ち、ショーペンハウアーの体系を十分かつ満足に補完するだろう。私がそうする気になるかどうか、まあ、見て見ようではないか。
1858/12/8 日記
私は読書もとても制限している。ほとんどその気がおこらないが、結局、我がショーペンハウァーへまたもや手を出すことになる。せんだって暗示しておいたように、彼は私をその素晴らしい思想の運びに導いてくれ、また、彼の(体系の)いくつかの不完全さを修正させる気を私に起こさせた。このテーマは日ごとに面白くなってくる。なぜなら、問題になっているのが、まさに私からしか与えられないような解明だからで、それは、私の考えるような意味で、同時に詩人と音楽家であった人間はかつて存在しなかったからだ。だから、そのような人間には、心のごく内面の経過への洞察が、他のいかなる人からも期待できないほどに可能となっているのだ。...昨日からまた〈トリスタン〉にかかっている。依然として第二幕である。しかし!それは何と言う音楽になるのだろう!一生、この音楽にだけかかっていられるかも知れない。ああ、それは深く、美しくなる。なんと崇高きわまる奇蹟がしなやかに心に生ずることだろうか。このようなものを私はまだ一度も行ったことがない。だが、私はまた完全にこの音楽のなかにえ入ってしまう。完成した暁には何一つ聴きたくないだろう。この音楽のなかで私は永遠に生きる。そして、私と一緒に。
1858/12/20 マティルデ・ヴェーゼンドンクあての手紙
私たちの手紙は行き違いになりました:私の手紙を郵便局で出したところへ、あなたのが来たのです!少し前から私はまったく孤独です。カルル・リッターは、病気の母に誕生日の挨拶をするために去っていきました。彼が去ったとき、私は、仕事を-始まったばかりだったが-中断させた病気から癒えるところでした。私は彼に、帰って来た時には、(トリスタン)のかなりの量を仕上げている、と約束しました。しかし、またもや、私は部屋に引きこもる破目になったのです。その上、足に怪我をしたのがもとで、今度は、椅子に縛り付けられ、そこから寝台に運んでもらうことにもなりました。そんな状態がほぼ今日まで続いたのです。(...)あまり書籍はもって来ませんでした。またこのような情況なので、読書もほとんどしませんでした。しかし、ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの手紙は取り寄せました。...もっと興味をそそられたのはシラーです。彼には心から没頭します。...それから、哲学も沢山やります。そして、わが友ショーペンハウアーを補完し、修正するという大きな成果を得ました。しかし、そのようなものは、書き付けておくよりは、頭の中で反鍋している方がいいと思います。
ショーペンハウアーへと送られることのなかったショーペンハウアー宛ての手紙
1858 『性愛の形而上学・草稿』
この文は冒頭、ショーペンハウアーの引用から始まる
「最後に、愛し合っているが、外的な事情に邪魔された恋人同土が共同の自殺をとげる例が毎年のように、一つ、また二つ挙げられる。これについて、どうも私には説明できないことは、お互いの愛を確し、それを享受することに最高の仕合わせを見出す期待を持った人たちが、断固たる手段に訴えて、あらゆるしがらみを逃がれ、あらゆる災難に耐えることよりは、自らの生命と一緒に、これ以上ないと考えられる幸せを放棄する道を選ぶことである」。私は、あなたがこのことについて本当に説明を見つけられなかったと考えたい気持ちにそそられます。と言いますのは、その点に私は話しの接ぎ穂を見つけたいと思うのでして、性愛という素地には自己認識に至る、しかも単なる個人の意志の否定ではない意志の自己否定に至る、一つの救済の道が現れている、という私の見解をお伝えしたいと思うからです。この、私の見解を哲学的に伝達できるようにする様々な概念という材料を私は専ら、あなたから得ました。いま、私は私の意見をはっきりお伝えしようと思いますが、それは全く、あなたを通じて習得した全てに倍頼をおいているからであります。私が、私の思っている意志の決断という、完全にして最高の現象をまず叙述するという回り道をしなければ、あなたが挙げられた例を説明できないという事情を、どうか、私の未熟、あるいはまた弁証法に才能を持たないということで、お赦し下されば幸いです。あなたのおっしゃった例は意志の決断ということのごく不完全で低い度合いのものとしか私は理解できませんが...