レオナルド
手記
造物主としての画家
画家は、自分を魅惑する美を見たいとおもえば、それを生み出す主となり、また、肝をつぶすほど奇々怪々なものであれ、ふざけて噴き出したいようなもの、実際可哀そうなものであれ、何でも見ようとおもえば、その主となり神となる。またもし、さまざまな土地や沙漠、暑い日には陰深く小暗い木立を生み出したいとおもえば、かれはそれを描く。同様に寒中にも暑い場所を生み出す。もし谿谷が入用なら、もし山々の高嶺から広野を見はらしたいなら、またもしその彼方に平らな海面をみたいなら、かれはその主である。もし低い谷から高山を仰ぎ、あるいは高い山から低い谷や傾斜面を俯瞰したいというなら、(それも同様だ)。実際この宇宙の中に本質として、現在としてあるいは想像としてあるものを、かれはまず脳裡に、次には手の中に所有する。そしてそれは非常に優秀なので、それらがいかなるものであろうとも、同時に一眸の中に均衡のとれた調和を生じる。
レオナルドは画家が自然を描くというより、「生み出す主」としてとらえている。「主」である以上、彼は万物を手中におさめているというわけだ。現代の画家がそれぞれの得意とする専門を有するのとは異なって、彼の目指す対象ははるかに大きい。いわば宇宙大といえる。だからその言葉にも「実際この宇宙の中に本質として、現在としてあるいは想像としてあるものを、かれはまず脳裡に、次には手の中に所有する」という言葉が見られるのである。ゆえに彼は画家を神と類推する。
画家の科学の神性なる所以は、画家の頭脳が神の頭脳に似たものに変る点にある。
また彼は「必然性は自然の先生であって案内者である。/必然性は自然の眼目にして作者、手綱にして永遠の掟である」として法則性のなかで必然性を傑出した地位におき、その美しさを次のように詠う。
原初の動かし手(神)よ、あなたの正義は何と驚歎すべきでありましょう。あなたはいかなる力にもその必然的結果という秩序と性質とを欠くことをゆるし給わなかったのです。
ここにレオナルドの美学が見受けられる。すなわち神が如く、必然性の因果で連鎖される調和のとれた美しき世界。それを創造することこそがレオナルドの意志であり、その絵画のパースペクティヴである。
絵画を軽蔑するものは哲学をも、また自然をも愛していない。──もし君が、「自然」の(手になる)ありとあらゆる目に見える作品の唯一人の模倣者たる「絵画」を軽蔑したら、たしかに君は、哲学的で繊細な思索によってもろもろの形態、即ち光と翳とにかこまれた空気や場所、植物、動物、草花のあらゆる性質を考察する繊細な発明力を軽蔑するものであろう。そして本当にこれこそ「自然」の学であり嫡子である、何故なら、「絵画」は自然から生れるからである。しかしもっと正確に言えば、自然の孫というべきだろう、というのは目に見えるありとあらゆるものは自然から生れたものであるが、「絵画」はそういうものから生れるからだ。だから正しくはこれをかの自然の孫、神の御身内と称すべきであろう。