ミロ
ミロのパリで初めての個展のカタログ序文を執筆した批評家モーリス・レイナルが、1927年の重要な著書 『フランスにおける絵画選集:1906年から現在まで』のダダについての一節のなかで、次のような形でミロに言及する。
ミロの最も有名な伝記の著者ジャック・デュパンのテキスト
この「絵画の殺害」というフレーズはミロ自身によるものだが、ジャン=ポール・サルトルは誤解して、ミロがかつてある絵画にこのようなタイトルを付けたものだと書いている。ミロはこの表現をテリアードとの会話のなかで用いており、「洞穴時代以降、絵画は堕落している」というまた別の有名な一節と共に、『ラントランシジャン』誌の美術コラム欄で紹介されている。絵画についての反抗的態度は、1929年、1930年の作品のなかにとりわけ鮮明に現れている。(...)反絵画、反芸術という概念が始まり極端に組織化されるのはダダにおいてであり、この運動がロの発展に及ぼした決定的な影響は良く知られている。それは否定の論理、あらゆる価値の拒絶から生じたものだ。ダダは多くの芸術家や作家たちに強い印象を残しているが、それが最も典型的なやり方で実現していたのはマルセル・デュシャンの謎めいた個性においてであり、ミロはデュシャンをこの上なく賞賛してきた。 https://scrapbox.io/files/68b6b7df1128ac975ceeb3e0.png
ロラン・テュアルとミシェル・レリスの勧めで彼に会いに行った。(...)スペインの踊り子の肖像画、《農園》、《耕地》、《農婦》(...)これらの作品とはまったく違っている作品群が既に前面化してきており、より挑発的な様相を呈していた。《カーバイド・ランプ》、未完成の《アルルカンの謝肉祭》、それから私がしばらく所有していた背景が一面黄色の《隠者の住処》では、木炭で描かれた粗野な風景が、中央の人物の黒さや右上の太陽の黒、左の菩星か惑星かの黒に強調されながら、ほんの少しのストロークで要約されている。先史時代の穴居人の類から、ヒエログリフのような世界の理解へ、暴力的な色彩と、いかなるシャンポリオンも解読を望むことすらできない記号との衝突へと移行する反絵画が始まるのは、新たなエクリチュールが生まれるのは、おそらくここ、ミロの鏡のなかにおいてなのだ。