ドーキンス
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ミームについて
私たちの属する人間という種を特異な存在と見なす妥当な根拠はあるのだろうか。私は、そのような根拠はたしかに存在すると信じている。 人間をめぐる特異性は、「文化」という一つの言葉にほぼ要約できる。もちろん私は、この言葉を通俗的な意味でではなく、科学者が用いる意味で使用している。基本的には保守的でありながら、ある種の進化を生じる点で、文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。ジェフリー・チョーサー〔一四世紀の詩人でカンタベリー物語の著者。「英詩の父」と呼ばれる〕は、連綿と続く約二〇世代ほどの英国人を仲立ちとして、現代英国人と結びつきを持っている。仲立ちとなっているそれぞれの世代の人々は、ごく身近な世代の人々となら、息子が父親と話をする場合のように会話ができたはずだ。しかし、チョーサーと現代英国人とのあいだで会話を交わすのは不可能だろう。言語は、非遺伝的な手段によって「進化」するように思われ、しかもその速度は、遺伝的進化より格段に速い。文化的伝達はなにも人間だけに見られるのではない。人間以外の動物に関するものとして、私が知っている最も良い例は、ニュージーランド沖の島に住むセアカホオダレムクドリという鳥のさえずりに見られる例で、ごく最近、P・F・ジェンキンスによって記録されている。彼の研究した島では、全部で約九つの異なるさえずりかたが観察された。それぞれの雄は、これらのさえずりのうちの一つあるいは数種しか歌わない。ジェンキンスは、雄たちを方言のグループに分けることができた。たとえば、隣接したテリトリーを持つ八羽の雄から成るあるグループは、CCソングと名付けられた特定のさえずりかたをした。他の方言グループはそれぞれ別のさえずりを示した。同じ方言グループに所属する個体が二つ以上の別のさえずりかたを共有するような例もあったという。ジェンキンスは、父親と息子のさえずりかたを比較することによって、さえずりのパターンが遺伝的に親から子へ伝わるのではないことを明らかにした。個々の若雄は、近所にテリトリーを持つ他個体のさえずりを、人間の言語の場合と同様に模倣という手段によって自分のものにするらしい。ジェンキンスの滞在期間中、島で聞くことのできるさえずりの数はほぼ決まっていた。それらが、いわば「さえずりプール」を形成し、若雄たちはそこから少数のさえずりかたを自分のものにしていたのだ。しかしジェンキンスは、若雄が古いさえずりかたを模倣しそこねて、新しいさえずりを「発明」する現場に居合わせる幸運に何度か恵まれた。彼は次のように述べている。「新しいさえずりは、鳴き声の高さの変化、同じ鳴き声の追加、鳴き声の脱落、あるいは他のさえずりかたの部分的編入など各種の方法で生まれることが明らかとなった(……)。新しいさえずりの形式は唐突に出現するが、そのあとは数年にわたってきわめて安定した形で維持された。さらにいくつかの例では、変異型のさえずりが、その新しい様式のままで新参の若雄たちに正確に伝達され、その結果、よく似た歌い手たちのグループが新たに他から識別できるほどになった」。新しいさえずりの出現を、ジェンキンスは「文化的突然変異」と表現している。セアカホオダレムクドリのさえずりは、明らかに非遺伝的な方法で進化している。さらに、鳥類やサルの仲間にはこの他にも文化的進化の例が知られている。しかし、これらはいずれも風変わりで面白い特殊例にすぎない。文化的進化の威力を本当に見せつけているのは、私たちの属する人間という種だ。言語は、その多くの側面の一つにすぎない。衣服や食物の様式、儀式・習慣、芸術・建築、技術・工芸、これらすべては、歴史を通じてあたかもきわめて高速度の遺伝的進化のような様式で進化するが、もちろん実際には遺伝的進化などとはまったく関係がない。しかし、遺伝的進化と同様、文化的な変化も進歩的でありうる。現代科学は、実際に古代の科学より優れていると言える。すなわち、宇宙に関する私たちの理解は、時代とともに変化するだけではなく、実際に改善されていくものだ。宇宙の理解に関して現在のような爆発的進歩が見られるようになったのは、たしかについ先ごろのルネサンス以後のこと。ルネサンス以前には陰気な停滞期があり、ヨーロッパの科学文化はギリシャが達成した水準に凍結されていた。しかし第5章で述べたように、遺伝的進化でも似た現象が見られる。それは安定した停滞期をあいだにはさみながら、一連の突発的変化を示して進行するらしいのだ。 文化的進化と遺伝的進化の類似性はしばしば指摘される。ただし、ときとしてそれは、まったく不必要な神秘的含意のある文脈で取り上げられる。科学の進歩と、自然淘汰による遺伝的進化の類似性に関しては、とくにカール・ポパー卿が明らかにした。ポパー卿をはじめ、その他にたとえば、遺伝学者L・L・カヴァリ=スフォルザ、人類学者F・T・クローク、比較行動学者J・M・カレンなどが探求している方向を、さらに推し進めてみたいというのが私の狙いである。熱烈なダーウィン主義者の私は、熱烈なダーウィン主義者の同僚たちが人間行動に与えている説明には、ずっと不満を感じていた。彼らは、人間の文明が示す各種の特性に、「生物学的有利さ」を見出そうと努力してきたのだ。たとえば、部族宗教は集団としての一体感を高めるための一つのメカニズムと見なされてきた。群れで狩猟をする動物の場合、各個体の生存は、大型で足の速い獲物を捕えるための協力に依存しており、先のメカニズムはこのような種にとっては価値があるわけだ。この種の理論を組み立てる際、その前提とされている進化論的な見解が、しばしば暗黙のうちに群淘汰主義者的なものになっていることがあるが、それらは正統的な遺伝子レベルの淘汰で言い換えることができる。たしかに人間は、過去数百万年の大半を、小規模な血縁集団単位の生活で過ごしてきたようだ。したがって、私たちの基本的な心理的特性や傾向の多くは、私たちの遺伝子に対して血縁淘汰や、互恵的利他主義を促進する淘汰が働いた結果として作り出されたのだと考えることもできる。こういった考えかたも、それ自体としてはもっともらしい。しかし、文化や、文化的進化、さらに世界の人間文化が示すはかりしれない差異──コリン・ターンブルの記したウガンダのイク族の極限的な利己性と、マーガレット・ミードの報告したアラペシュ族の温和な利他主義がその両極だ──を説明するという途方もない難題は、まだ先に述べたような理論ではとても対処できないのではないか。私の考えでは、私たちはもう一度、第一原理に立ち戻ってみる必要がある。これから私が展開しようとする議論は、現代人の進化を理解するためには、遺伝子だけをその唯一の基礎と見なす立場を放棄しなければならないというものだ。この本をここまで何章も書いてきた著者がこんなことを言うと驚かれるかもしれない。私はたしかに熱烈なダーウィン主義者だ。しかし私は、遺伝子という狭い文脈に閉じ込めてしまうには、ダーウィニズムはあまりに大きな理論だと考えている。以下の私の主張においては、遺伝子は類推の対象としてしか登場してこないだろう。 そもそも遺伝子の特性とは何か。その答えは、自己複製子だ。物理学の法則は、到達可能な範囲の全宇宙にあてはまると見なされている。生物学には、これに相当する普遍的妥当性を持つような原理があるだろうか。宇宙飛行士がかなたの惑星に到達して生物を探せば、私たちには想像もつかないような奇妙、奇怪な生物に遭遇するかもしれない。しかし、どこに住んでいようが、どんな化学的基盤を持って生きていようが、あらゆる生物に必ず妥当するようなものが何かないだろうか。たとえ炭素の代わりに珪素を、あるいは水の代わりにアンモニアを利用する化学的仕組みを持つ生物が存在したとしても、また、たとえマイナス一〇〇度で茹で上がって死んでしまう生物が発見されても、さらに、たとえ化学反応に一切頼らず、電子的な反響回路を基盤とした生物が見つかったとしても、なおこれらすべての生物に妥当する一般原理はないものか。むろん私はその答えなど知らない。しかし、もし何かに賭けなければならないのであれば、私はある基本原理に自分の持ち金を賭けるだろう。すべての生物は、自己複製する実体の生存率の差に基づいて進化する、というのがその原理である 。自己複製する実体として私たちの惑星に勢力を張ったのが、たまたま、遺伝子、つまりDNA分子だった。しかし、他のものがその実体となることもありえよう。仮にそのようなものが存在し、他のある種の諸条件が満たされれば、それがある種の進化過程の基礎になることはほとんど必然的だ。別種の自己複製子と、その必然的産物である別種の進化を見つけるためには、はるか遠方の世界へ出かける必要があるだろうか。私の考えるところでは、新種の自己複製子が最近まさにこの惑星上に登場している。私たちはそれと現に鼻をつき合わせているのだ。それは未発達な状態にあり、依然としてその原始スープのなかで無器用に漂っている。しかしすでにそれはかなりの速度で進化的変化を達成しており、遺伝子という古参の自己複製子は遅れて、はるか後方であえいでいるありさまだ。新登場のスープは、人間の文化というスープである。新登場の自己複製子にも名前が必要だ。文化伝達の単位、あるいは「模倣」の単位という概念を伝える名詞である。模倣に相当するギリシャ語の語根を取ればmimemeだが、私がほしいのは、gene(遺伝子)と発音の似ている単音節の語だ。そこで、このギリシャ語の語根を meme(ミーム)と縮めることとする 。私の友人の古典学者諸氏には御寛容を乞う次第だ。もし慰めがあるとすれば、ミームという単語は memory(記憶)、あるいはフランス語の même(同じ)という単語にも掛けられることか。なお、この単語は、「クリーム」と韻を踏んで発音していただきたい。 旋律や観念、キャッチフレーズ、衣服のファッション、壺の作りかた、あるいはアーチの建造法などはいずれもミームの例である。遺伝子が遺伝子プール内で繁殖するに際して、精子や卵子を担体として体から体へと飛びまわるのと同様に、ミームがミーム・プール内で繁殖する際には、広い意味で模倣と呼べる過程を媒介として、脳から脳へと渡り歩く。科学者が良い考えを聞いたり読んだりすると、彼は同僚や学生にそれを伝えるだろうし、論文や講演でもそれに言及するだろう。その考えが評価を得れば、脳から脳へと広がって自己複製すると言えるわけだ。私の同僚ニコラス・ハンフリーが、本章の初期の原稿を手際良く要約し、指摘してくれている。「(……)ミームは、比喩としてではなく、厳密な意味で生きた構造と見なされるべきだ 。君がぼくの頭に繁殖力のあるミームを植えつけるというのは、君がぼくの脳に文字通り寄生することなのだ。ウイルスが寄生細胞の遺伝機構に寄生するのと似た方法で、ぼくの脳はそのミームの繁殖用の担体にされてしまう。これは単なる比喩ではない。たとえば〈死後の生命への信仰〉というミームは、世界中の人々の神経系の一つの構造として膨大な回数にわたって肉体的に体現されているではないか」神という観念を考えてみる。それがどのようにしてミーム・プールに発生したかは定かではない。もしかするとそれは、独立した「突然変異」によって幾度も発生したのかもしれない。では、それはいかに自己複製するのか。語られる言葉、書かれた文字によってである。しかも偉大な音楽や芸術がその手助けをしている。しかし、そのミームはなぜこのように高い生存価を示すのか。ここで言う「生存価」とは、遺伝子プールのなかの遺伝子にとっての値ではなくて、ミーム・プールのなかのミームにとっての値であることを忘れないでほしい。先の疑問の意味するところをきちんと表現すると次のようになる。神の観念に、文化環境中における安定性と浸透力を与えているのは、いったいその観念の持つどのような性質なのか。ミーム・プールのなかにおいて神のミームが示す生存価は、それが持つ強力な心理的魅力に基づいている。実存をめぐる深遠で心を悩ませる諸々の疑問に、表面的にはもっともらしい解答を与えてくれるのだ。現世の不公正は来世において正されるとそれは主張する。私たちの不完全さに対しては、「神の御手」が救いを差しのべて下さるという。医師の用いる偽薬と同様で、こんなものでも空想的な人々には効き目がある。これらは、世代から世代へと、人々の脳がかくも容易に神の観念をコピーしていく理由の一部だ。人間の文化が作り出す環境においては、たとえ高い生存価、あるいは感染力を持ったミームという形でだけにせよ、神は実在する。 神のミームの生存価に関するこのような私の説明は、肝心の論点を避けているのではないかと指摘してきた同僚がいた。彼らは最終的には、いつも決まって「生物学的有利さ」に立ち戻ろうとする。神の観念には「強力な心理的魅力」がある、と言っただけでは彼らは不満だ。彼らは、なぜそれが強力な心理的魅力を持つのかを知りたがる。心理的魅力とはすなわち脳に対する魅力のことだ。そして脳とは、遺伝子プールのなかの遺伝子に対して自然淘汰が作用して作り上げたものだ。このような脳を持つことは何らかのありかたで遺伝子の生存の促進につながっているのではないか。彼らはそのような方法を見つけたいのだ。私はこの種の態度には大いに共感を持っているし、また、現在のような脳を私たちが所有していることには遺伝的な有利さがあるはずだという見解にもなんら疑問を抱いていない。しかしそのうえでなお私は、もしこれら同僚諸氏が彼ら自身の議論の諸前提をその根本のところで詳しく検討されるなら、彼ら自身が私とまったく同じだけ論点回避をされていることに気づかれるはずだと考えている。根本に立ち返ってみよう。生物学的現象を遺伝子への利益という観点から説明することがうまい方法なのは、遺伝子が自己複製子だからこそだ。原始スープのなかで、分子の自己複製を可能にするような条件が整うと、たちまち自己複製子が原始スープに取って代わることになった。そしてこの三〇億年以上というもの、地上において語る価値のある唯一の自己複製子はDNAだった。しかし、DNAは、永遠にその専制支配権を確保できるとは限らない。新種の自己複製子が自己のコピーを作れる条件が生まれさえすれば、その新登場の自己複製子が勢いを得て、それ自体の新たな種類の進化を開始することになる。いったんこの新しい進化が開始されると、もはやそれが古いタイプの進化に従う必然性はなくなる。遺伝子を単位とする古い進化は、脳を作り出すことによって、最初のミームが発生しうる「スープ」を提供した。次いで自己複製能力のあるミームが登場すると、彼らは、古いタイプの進化よりはるかに速やかな、独自のタイプの進化を開始したのだ。私たち生物学者は遺伝子による進化の考えかたにすっかりなじんでしまっているので、それがじつは、可能な多種類の進化のうちの一例にすぎないことを、ともすると忘れてしまうだ。広義の意味での模倣が、ミームの自己複製を可能にする手段だ。しかし自己の複製が可能な遺伝子のすべてが成功を収められるわけではないのとまったく同様、一部のミームはミーム・プール中で他のミーム以上の成功を収める。これは自然淘汰と相似な過程である。ミームに高い生存価を付与するような特性については、すでにいくつか特殊な例を挙げた。しかし、一般化して考えると、その特性は、第2章で自己複製子に関して論じられたものと同じものになるはずだ。すなわち、寿命、多産性、そして複製の正確さの三つである。ミームのコピーが示す寿命は、遺伝子の場合に比べると、さほど重要ではなさそうだ。私の頭のなかにある「オールド・ラング・サイン 」〔日本の「ほたるの光」はこの曲のメロディを借用した〕の旋律は、私の余命のあいだしか生き長らえないだろう。私の手元にある「スコットランド学生歌曲集」に印刷された同じ旋律のコピーも、先のコピーに比べてはるかに長生きできるわけでもなかろう。しかしそれでも、同じ旋律のコピーは紙に印刷され、人々の頭に刻まれて、今後数百年にわたって存在し続けるだろう。遺伝子の場合と同様、ここでも特定のコピーの寿命より、多産性のほうがはるかに重要だ。問題のミームが科学的なアイディアである場合、その繁殖は、それが科学者集団にどの程度受け入れられるかに依存するだろう。この場合は、発表後の科学雑誌における被引用回数が、そのアイディアの生存価の大まかな尺度と見なすこともできよう。流行歌の旋律というミームの場合、ミーム・プールのなかでの繁殖の程度は、その曲を口笛でふきながら町を行く人の数で測れるかもしれない。婦人靴のスタイルというミームが問題なら、集団ミーム学者は、靴屋の売り上げ統計を利用することもできよう。遺伝子の場合と同様、ミームのなかにも、急激な増殖によって目覚ましい短期的成功を達成しながら、ミーム・プールに永くは留まれないようなものもある。流行歌や、やたらにかかとのとがったハイヒールなどがその例だ。一方ユダヤ教の律法のように、数千年にもわたって自己複製し続けるものもある。こういったミームは通常、書き記された言葉の持つ、きわだった潜在的永続性の恩恵を被っている。 続いて、自己複製子が成功するための第三の一般的性質、すなわち複製の正確さの問題がある。この点に関して、私の議論の土台がやや頼りないことを認めなければならない。一見したところ、ミームという自己複製子は、複製上の高度な正確さをまったく欠いているように見えるからだ。たとえば科学者があるアイディアを聞いてそれを他人に伝える場合、彼はそれをいくらか変化させてしまうだろう。本書の内容がR・L・トリヴァースのアイディアに負うことを私は隠してこなかったが、彼のアイディアを彼の言葉どおりに反復したわけではない。強調する点を変えたり、私自身のあるいは他の研究者のアイディアを混ぜ合わせたりして、私は、彼のアイディアを私の目的に沿うようにねじ曲げている。元のミームは変形されて読者に伝えられているのだ。これは粒子的で、全か無かといった性質を持つ遺伝子の伝達とは、まったく似ていないように見える。ミームの伝達は不断の突然変異、そしてさらには混合にさらされているかに見えるのである。 しかし、この一見非粒子的な性質もじつは錯覚で、遺伝子との相似性は崩れていないのだという可能性もある。そもそも、人間の身長や皮膚の色のような多くの遺伝形質による遺伝を見ると、それらが、分割不可能でかつ混合不可能な遺伝子の所産だなどとは思えない。黒人と白人が結婚した場合、彼らの子どもたちの皮膚は黒色でも白色でもなく、その中間の色を示す。しかしだからといって、これは当該の遺伝子が粒子的でないことを意味するわけではない。皮膚の色に関しては、微弱な効果を示す遺伝子が非常に多数関与しており、そのために一見それらが混合するように見えるのだ。これまで私は、一つの単位ミームが何から構成されているかが、あたかも自明であるかのように話してきた。しかし、それが自明でないことははっきりしている。私は一つの旋律を一つのミームだと言ってきた。しかしでは一つの交響曲はどうなるのだ。それはいくつのミームからできているのか。それぞれの楽章がミームに相当するのか、メロディの上で識別できる楽句がミームにあたるのか、それぞれのコードがミームなのか、いったいどうなのだろう。第3章で使ったのと同じ言葉のトリックに訴えることにしよう。その章で私は、「遺伝子の複合体」を大小の遺伝的単位に分割し、それをまたさらに細かい単位に分割した。そして私は「遺伝子」を、厳格な「全か無か」式にではなく、便宜的な単位として、すなわち、自然淘汰の単位として持続的に働くに足るだけの複製上の正確さを備えた、染色体上の部分として定義しておいた。さて、今、ベートーベンの交響曲第九番のなかに、交響曲全体の流れから抜き出せるくらい十分に目立ち、しかも覚えやすいあるフレーズがあったとする。しかもそれは、腹の立つほど押しつけがましいヨーロッパのある放送局がコール・サインとして使えるくらい、目立って覚えやすいフレーズだとする。この場合そのフレーズは、こうした事情にふさわしい範囲で、一つのミームと呼ぶことができるはずだ。ついでながら、このミームのおかげで、元のシンフォニーを享受する私の能力は、大幅に減退させられてしまった。この例と同様、たとえば私たちが「今日の生物学者はすべてダーウィンの理論を信じている」と言ったとしても、なにもすべての生物学者が、チャールズ・ダーウィンの言葉を正確にそのまま頭のなかに刻みつけていると言っているわけではない。個々の学者は、ダーウィンの理論に関して彼独自の解釈を下している。彼はもしかすると、ダーウィン自身の著作からそれを学んだのではなく、もっと最近の著者のものから学んだのかもしれない。それどころか、ダーウィンの述べたことには、詳しく言えばかなりの誤りがある。もしダーウィンが私のこの本を読んだとしたら、そこに彼自身のオリジナルな理論をほとんど見出すことができないはずだ。もっとも私は、彼が私の説明法については気に入ってくれるだろうと期待しているのだが……。さて、このような諸事情にもかかわらず、ダーウィニズムの本質とでも言うべきものはたしかに存在し、この理論を理解しているすべての人々の頭のなかにはそれが現存する。もしそういうことがありえなければ、二人の人間のあいだで意見が一致することに関するあらゆる言明は、無意味になってしまう。「観念のミーム」は、脳と脳のあいだで伝達可能な実体として定義されるだろう。つまり、ダーウィン理論のミームとは、この理論を理解しているすべての脳が共有する、その理論の本質的原則のことだ。したがって、人々がその理論を表現する際の手段上の相違は、定義によって、ダーウィン理論のミームには含まれない。さらにもしダーウィンの理論がAとBの二つの部分に分けられるとしたらどうなるか。このとき仮に、ある人々はAを信じるがBを信用せず、別の人々はBを信じてAを信じないといった状況があれば、AとBは別のミームとして区別されるべきだろう。しかし、Aを信ずる人はほとんどすべてBも信用する──つまり、遺伝学用語を使えば、二つのミームがしっかり「連鎖」している──とするなら、この場合は両者を合わせて一つのミームと見なしたほうが便利である。ミームと遺伝子の類似点をさらに調べてみよう。本書を通じて私は、遺伝子を、意識を持つ目的志向的な存在と考えてはならないと強調してきた。しかし遺伝子は、見境のない自然淘汰の働きによって、あたかも目的をもって行動する存在であるかのごとく仕立てられている。そこで、言葉の節約という立場で考えると、目的意識を前提にした表現を遺伝子にあてはめてしまったほうが便利だったからだ。たとえば、「遺伝子は、将来の遺伝子プールのなかにおける自分のコピーの数を増やそうと努力している」と表現した場合、実際の意味は「私たちが自然界においてその効果を目にすることができる遺伝子は、将来の遺伝子プール中における自分の数を結果的に増加させられるような挙動を示す遺伝子だろう」ということだ。自己の生存のために目的志向的に働く能動的な存在として遺伝子を考えることが便利だったのとまったく同様に、ミームに関しても同じように考えれば便利ではないだろうか。いずれの場合も、表現を神秘的に解釈されては困る。目的の観念はいずれにおいても単なる比喩にすぎないのだ。しかし、遺伝子の場合にこの比喩がどんなに有用だったかはすでに見たとおりだ。私たちは、それが単なる比喩であることを十分承知したうえで、遺伝子に対して「利己的な」とか、「残忍な」などという形容詞さえも用いたのだ。これらの場合とまったく同じ心構えで、利己的なミームや残忍なミームを物色することができるだろうか。 ここで、競争の性質をめぐる問題を一つ考えておきたい。有性生殖の場合、個々の遺伝子は、対立遺伝子、すなわち染色体上の同じ場所を占めようとするライバル遺伝子という特別な相手と競争している。ミームには、染色体に相当するものがあるとは思えず、したがって対立遺伝子に相当するものもないように見える。ごく些細な意味でなら、多くの観念には「対立する観念」があるとも言えよう。しかし一般的にミームは、きちんと対を作った多数の染色体の形で存在する今日の遺伝子とはあまり似ておらず、むしろそれは、かつて原始スープのなかを無秩序きままに漂っていた初期の自己複製分子のほうに似ている。では、いったいどんな意味で、ミームは互いに競争しているのか。対立ミームがないのに、ミームは「利己的」だったり「残忍」だったりできるのか。おそらく可能だというのが私の答えである。ある意味で、彼らはある種の競争をする必要があるからだ。コンピュータを使用されたことのある読者は、その演算時間や記憶容量がどんなに貴重なものかご存じだろう。多くの大規模な計算機センターでは、それらを文字どおり料金に換算しているか、あるいは使用者に、秒単位の使用時間と、「文字」の数で表された記憶容量をそれぞれ一定量ずつ割り当てている。人間の脳は、ミームの住みつくコンピュータである 。そこでは時間が、おそらくは記憶容量より重要な制限要因となっており、激しい競争の対象となっているだろう。人間の脳とその制御下にある体は、同時に一つあるいは数種類以上の仕事をこなすわけにはいかないからだ。あるミームがある人間の脳の注目を独占しているとすれば、「ライバル」のミームが犠牲になっているに違いない。ミームが競争の対象とする必需品は他にもある。たとえば、ラジオ、テレビの放送時間、掲示板のスペース、新聞記事の長さ、そして図書館の棚などだ。 遺伝子の場合、遺伝子プールのなかに、共適応した遺伝子の複合体が発生しうることを第3章で述べた。たとえば、チョウの擬態に関与する多数の遺伝子は、同一染色体上にきわめて密接に連鎖しており、それらすべてを一まとめにして一つの遺伝子として扱えるほどだ。第5章では、進化的に安定な遺伝子セットというさらに複雑な概念を持ち出した。たとえば肉食動物の遺伝子プールでは、互いに適合した、歯、爪、消化管、そして感覚器官が進化し、一方草食動物の遺伝子プールでは、これとは異なった諸特性が安定したセットを形成している。ミーム・プールでもこれらに似たことが起こるだろうか。たとえば、神のミームが他の特定のミームと結びついて、この結びつきが当のミームたちそれぞれの生存を促進するようなことはあるのか。もしかすると、独特の建築、儀式、律法、音楽、芸術、そして文字として書かれた伝統をともなった教会組織などは、互助的なミームの共適応的安定セットの一例かもしれない。具体例を挙げよう。人々に宗教への恭順を強いるうえできわめて有効だった教義の一つは、地獄の劫火という脅迫だ。多くの子どもたちや、それどころか一部のおとなまでが、僧侶の言うことに従わないと死後にとてつもない苦痛を受けると信じている。これはきわめて陰険な説得技術であり、中世において、そして今日においてすら、多くの心理的苦痛の源泉となっている。しかしそれにもかかわらず、この技術は効果的だ。あるいは、深層心理学的な教化技術の訓練を受けた策謀的な聖職者が、意図的にそんな技術を作り上げたのかとすら思えるほどだ。しかし私には、僧侶たちがそれほど頭が良かったとは思えない。むしろ、それ自体は意識を持たないミームが、成功する遺伝子が示すのと同じ疑似的残忍性という特性を持ったおかげで、自らの生存を確保できたのだというほうが当たっているような気がする。地獄の劫火という観念は、ただ単に、それ自体が持つ強烈な心理的インパクトのおかげで、自己を永続化たらしめているのだ。それが神のミームと連鎖したのは、両者が強化し合って、ミーム・プールのなかにおける互いの生存を促進できるからだ。 宗教というミーム複合体のもう一つのメンバーに、信仰心というものがある。これは、証拠がなくとも、いや時には証拠を無視してでも、信仰に酔心することだ。不信のトマスの話は、トマスをあがめるようにという話ではなく、彼と比較対照することによって、私たちが他の使徒たちをあがめられるようにしようとする話なのだ〔イエスの弟子トマスが、主の復活を聞いても「手に釘の跡を見てそこに指を入れてみないと信じない」と疑ったエピソード。新約聖書「ヨハネの福音書」〕。トマスは証拠を要求した。ある種のミームにとっては、証拠を求める傾向ほど致命的なものはない。他の使徒たちはとても強い信心を持っていたので、証拠など必要なかった。そして彼らこそ見習うべき価値のある人々として支持されている。やみくもな信仰心のミームは、理性的な問いを挫くという単純な無意識的手段を行使することによって、自己の永続性を確保するのだ。無批判に神を信じ込むひたむきな信仰心は、一切を正当化できる 。もし人が別の神を信じているなら、いや、もし人が同じ神をあがめるのに別の儀式を用いるなら、たったそれだけのことで、ひたむきな信仰心は彼に死刑を宣告できるのだ。十字架にかける、火あぶりにする、十字軍の剣で串刺しにする、ベイルートの路上で射殺する、ベルファストの酒場に居るところを爆弾で吹きとばす。何でもござれだ。ひたむきな信仰心というミームは、身に備わった残忍な方法で繁殖していく。愛国的、政治的だろうが宗教的だろうが、この性質はまったく同じだ。ミームと遺伝子は、しばしば互いに強化し合うが、ときには相対立する。たとえば、独身主義の習慣などは、おそらく遺伝によって伝わるものではあるまい。社会性昆虫に見られるような非常に特殊な状況を除けば、独身主義を発現させる遺伝子は、遺伝子プール中での失敗を運命づけられているからだ。しかし独身主義のミームには、ミーム・プールのなかで成功する可能性がある。たとえばミームの成功は、それを積極的に他者に伝えるために人々がどのくらいの時間を費すかによって決定的に左右されると仮定してほしい。そのミームを伝達しようとすること以外に費されたすべての時間は、そのミームの立場から見れば時間の無駄遣いとされるだろう。独身主義のミームは、聖職者たちから、まだ人生の目標を決めていない少年たちに伝えられる。伝達の媒体になるのは、各種の人間的影響力を持つもの、たとえば、話される言葉、書かれた文字、人による手本などである。ここで議論の都合上、大衆に対する聖職者の影響力が結婚によって弱められてしまうものと考えることにしよう。結婚が彼の時間と関心を大幅に牛耳ってしまうかもしれないからだ。事実これは、聖職者に独身生活が強要される際の公式的な理由として提示されていることでもある。もし万が一このような事態がありうるなら、独身主義のミームは、結婚をうながすミームより高い生存価を示すことになるだろう。もちろんのこと、独身主義をうながす遺伝子などというものがあるなら、それについては独身主義のミームとはまったく逆の結果になるはずだ。僧侶がミームの生存機械であるとすれば、独身主義というのは彼に組み込まれれば役に立つ属性である。独身主義は、多数の互助的な宗教的ミームの作り上げる巨大な複合体の、小さなパートナーなのだ。 私は、共適応した遺伝子群の複合体の進化と同様な方式で、共適応したミームの複合体が進化すると推測している。淘汰は、自己の利益のために文化的環境を利用するようなミームに有利に働く。この文化的環境は、同様に淘汰を受けているミームたちで構成されている。したがって、ミーム・プールは進化的に安定なセットとしての特性を示すようになり、新しいミームはなかなか侵入できなくなるだろう。少々ミームの暗い面ばかり話してきたようだが、ミームには明るい面もある。私たちが死後に残せるものが二つある。遺伝子とミームだ。私たちは、遺伝子を伝えるために作られた遺伝子機械である。しかし、遺伝子機械としての私たちは、三世代も経てば忘れ去られるに違いない。子どもや、あるいは孫も、私たちとどこか似た点を持ってはいるだろう。たとえば顔の造作が似ているかもしれないし、音楽の才能が、あるいは髪の毛の色が似ているかもしれない。しかし、世代が一つ進むごとに、私たちの遺伝子の寄与は半減していくのだ。その寄与率は遠からず無視していい値になってしまう。私たちの遺伝子自体は不滅かもしれないが、特定の個人を形成する遺伝子の集まりは崩れ去る運命にある。エリザベス二世は、ウィリアム一世の直系の子孫だ。しかし彼女がいにしえの大王の遺伝子を一つも持ち合わせていない可能性は大いにある。繁殖という過程のなかに不滅を求めるべきではない。 しかし、もし私たちが世界の文化に何か寄与することができれば、たとえば立派な見解を述べたり、作曲したり、点火プラグを発明したり、詩を書いたりすれば、それらは、私たちの遺伝子が共通の遺伝子プールのなかに雲散霧消して去ったのちも、長く、変わらずに生き続けるかもしれない。G・C・ウィリアムズが指摘したように、ソクラテスの遺伝子のうち、今日の世界に生き残っているものが果たして一つか二つあるのかどうかわからない。しかし誰がそんなことを気にかけるものか。ソクラテス、ダ・ヴィンチ、コペルニクス、マルコーニ──彼らのミーム複合体はいまだ健在ではないか。 私の展開したミームの理論がいかに思弁的だったとしても、ここでもう一度強調しておきたい重要な論点が一つある。文化的特性の進化や生存価を問題にするときには、誰の生存を問題にしているかをはっきりさせておかなければならない。すでに見たように、生物学者たちは遺伝子のレベルでの有利さを探求することに慣れてしまっている(好みによっては、個体、集団あるいは種のレベルで有利さを探求したがる人々もいるが)。そこで、単にそれ自身にとって有利だというだけの理由で文化的な特性が進化する、そんな進化の様式がありうるなどとは、これまで考えてもみなかったのだ。宗教、音楽、祭礼の踊りなどには、生物学的な生存価もあるのかもしれないが、しかしそれらに関して、必ずしも通常の生物学的生存価を探す必要はない。遺伝子が、その生存機械にひとたび速やかな模倣能力を持つ脳を与えてしまうと、ミームたちが必然的に勢いを得る。模倣に遺伝的有利さがあればたしかに手助けにはなるが、そんな有利さの存在を仮定する必要すらない。唯一必要なのは、脳の模倣能力だけだ。これさえ満たされれば、その能力をフルに利用するミームが進化していくだろう。新たに登場した自己複製子の話題もこれくらいにして、一言つつましい希望に触れて本章を閉じることにしたい。その進化がミームによってもたらされたのかどうか定かではないが、人間には、意識的に先見する能力という一つの独自な特性がある。利己的存在たる遺伝子に(そして、読者が本章の思弁をお認めになるなら、ミームにも)先見する能力はない。彼らは意識を持たないやみくもな自己複製子だ。彼らが自己複製するという事実と、ある種の付加的な諸条件とを組み合わせて考えると、彼らは、(本書で用いた特殊な意味で)利己的と呼ぶことのできる諸性質を不可避的に進化させることになる。遺伝子であれミームであれ、無知な自己複製子というものは、目先の利己的利益を放棄することが長期的には利益につながる場合でも、それを放棄しない。私たちはその例を攻撃行動を扱った第5章で見てきた。どの個体をとってみても、進化的に安定な戦略よりは「ハト派の共同行為」を取ったほうが有利なはずなのに、自然淘汰は必ず進化的に安定な戦略のほうに有利に働いてしまうのだ。純粋で、私欲のない、本当の利他主義の能力が、人間のもう一つの独自な性質だという可能性もある。ぜひそうあってほしいものだが、この点に関して私は、肯定的にも否定的にも議論するつもりはないし、それをめぐるミーム的な進化の可能性をあれこれ思弁するつもりもない。私がここで強調しておきたいのは次の一点だ。私たちがたとえ暗いほうの側面に目を向けて、個々の人間は基本的には利己的な存在なのだと仮定したとしても、私たちの意識的に先見する能力──想像力を駆使して将来の事態を先取りする能力──には、自己複製子たちの引き起こす最悪で見境のない利己的暴挙から、私たちを救い出す力があるはずだ。少なくとも私たちには、単なる目先の利己的利益より、むしろ長期的な利己的利益のほうを促進させるくらいの知的能力はある。「ハト派の共同行為」に参加することが長期的利益につながることを理解できるし、同じテーブルに座って、その共同行為をうまく実行する方法を話し合うこともできるはずだ。私たちには、私たちを産み出した利己的遺伝子に反抗し、さらにもし必要なら私たちを教化した利己的ミームにも反抗する力がある。純粋で、私欲のない利他主義は、自然界には安住の地のない、そして世界の全史を通じてかつて存在したためしのないものだ。しかし私たちは、それを計画的に育成し、教育する方法を論じることさえできる。私たちは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかし私たちには、これらの創造者に刃向う力がある。この地上で、唯一私たちだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのだ 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ドーキンスの正義
本書ではそれ以前より明確に、神仮説(God Hypothesis)を論破し、宗教は危険なものであると主張している。本書における宗教批判の具体的対象は「人格をもつ神の概念が中心的教義となっているすべての宗教」である。ドーキンスの言う有神論者(theist)とは、「そもそもこの宇宙を創造するという主要な仕事に加えて、自分の最初の創造物のその後の運命をいまだに監視し、影響を及ぼしているような超自然的知性の存在を信じている」人たちであり、理神論者(deist)とは、同様に超自然的な知性を信じているが、「その活動はそもそも最初に宇宙を支配する法則を設定することに限定される」と考えている人たちである。また、ドーキンスは基本的にそれらの宗教が「神仮説」を前提としていると考える。「神仮説」とは、以下である。 宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、創造した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説
それらに対し、批判の対象とならない汎神論者(pantheist)は、「超自然的な神をまったく信じないが、神という単語を、超自然的なものではない〈自然〉、あるいは宇宙、あるいは宇宙の仕組みを支配する法則性の同義語として使う」人たちを指す。これはコッターの〈自然〉に相当し、また、本章第7節で見る「自然についてのスピリチュアリティ」の発露とも言えるだろう。そしてアインシュタインやホーキングもその立場であると示し、それは「アインシュタイン的宗教とでも呼べるもの」であるが、「アルバート・アインシュタインと私たちの多くが共有する汎神論的な崇敬の念に「宗教」というラベルを張りたがる」ことには批判的である。 ドーキンス 超自然的な神だけを妄想と呼んでいる〜それは有害な妄想なのだ〜私は特定の神や女神を攻撃しようとしているのではない。私は神というものを、すべての神を、これまでどこでいつ発案された、あるいはこれから発案されるどんなものであれ、超自然的なものすべてを攻撃しているのである
ドーキンスの要点は、「宗教的な信仰は、攻撃されると非常に傷つきやすいので、どんな人間であれすべての他人に対して払うべき敬意に加えて、異常なほど厚い敬意によって、護ってやらなければならないという前提」があるが、宗教を金科玉条のごとく掲げるこのやり方をなくすべきだというものである。「私は要らぬ侮辱をするつもりはないが、宗教を扱うのに、ほかの事柄よりも手控えた扱いをして甘やかすつもりはない」というのである。
宗教上の信念は、それが宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちはオサマ・ビン・ラディンや自爆テロ犯が抱いている信念を尊重しないわけにはいかない。ではどうすればいいのか、といえば、こうして力説する必要もないほど自明なことだが、宗教上の信念というものをフリーパスで尊重するという原則を放棄することである。それこそが、私がもてるかぎりの力をつくして、いわゆる「過激主義的な」信仰に対してだけでなく、信仰そのものに対して人々に警告を発する理由の一つなのである。「中庸な」宗教の教えは、それ自身には過激なところはなくとも、門を開けて過激主義を差し招いているのである。 穏健で中庸的な宗教でさえ、過激主義が自然にはびこるような信仰風土をつくりあげるのに手を貸している〜宗教上の過激主義を責める―あたかも、それが、本物のまっとうな宗教が堕落してできたおぞましい変種でもあるかのように―のではなく、宗教そのものを非難すべきだ
特に超自然的に見えるものについても、いずれは理解し自然として受け入れられるというのである。そして、超自然的な宗教に対し、「何かを設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的知性も、長期にわたる漸進的進化の単なる最終産物にすぎない」という進化論の立場からの代案を提唱し、自然淘汰による進化という理論が、意識を高める究極的な道具であるとする。
ダーウィン流の進化、とりわけ自然淘汰は、天文学や地質学以上の力をもっており、「生物学において設計者デザイナーの存在という錯覚を粉砕し、物理学や宇宙論においてもいかなる種類の設計デザイン仮説にも疑いの目を向けるよう、私たちを導いてくれるのだ」というのである。 社会における無神論者の地位を高めることも、意識向上の一環と言えるだろう。ドーキンスは、現代のアメリカの無神論者たちが、「嫌がらせ、失職、家族による忌避、さらには殺人といったことまで含む」、偏見や差別を受けていること、カミングアウトを躊躇うことに触れる
私の夢は、そういう人々がカミングアウトする後押しを本書がしてくれることだ。ゲイ運動のときとまったく同じように、多くの人間がカミングアウトをすればするほど、他の人間はそれに加わりやすくなる〜アメリカの無神論者たちが孤立しているというのは、ひたすら偏見によって培われた錯覚にほかならない。アメリカにおける無神論者の数は、ほとんどの人が思っているよりもはるかに膨大だ」
このことに関連して、ドーキンスは理性と科学のためのドーキンス財団(Richard Dawkins Foundation for Reason and Science)を運営しており、宗教的でない人が宗教的でないとカミングアウトするよう勧め、無神論者であることはおかしなことや恐ろしいことではない、無神論者もまた良い人々だということを啓蒙する「アウト・キャンペーン(OUT campaign)」や、ロンドンの「無神論のバス・キャンペーン(Atheist Bus Campaign)」などを支持した。さらに、ダニエル・デネットとともに、自然主義的な世界観をもつ人々を “Brights” と呼ぶブライト運動にも参加している。 そして同書は「人類が理解の限界を押し広げようとしている時代に生きていることに、私は興奮を覚える。もっとうまくいけば、そこには限界などないのだと、いつかは知ることができるかもしれない」と書いて締め括られている。
神の起源と害悪性
ドーキンスは神仮説を論破することを目指している。神の存在証明についてドーキンスは、「何についても、あるものや事柄が存在しないと決定的な形で証明するのは不可能なことを考えれば、神の非在を証明できなくてもいいわけだし、それは瑣末なことでもある。問題は、神が反証可能(神が存在しない)かどうかではなく、神の存在がありえるかどうか(蓋然性)なのである。問題がまったく別物なのだ。ある種の反証不能な事柄は、他の反証不能な事柄よりもはるかにありえないと、分別によって判定される。蓋然性のスペクトラムに沿って考えるという原則から神だけを除外するべき理由はどこにもない」という立場を採る。そこで、バートランド・ラッセルの天空のティーポットの喩えを挙げ、「地球と火星の間に観察できないほど小さなティーポットがある」という主張は科学的に反証不可能であるが、だからといってそれを信じることはナンセンスだろうと言う 厳密に言えば、私たちはみなティーポット不可知論者でなければならない。天空のティーポットが存在しないことを、確実に証明することはできないのだ。なのに、実際問題として、私たちはティーポット不可知論を捨て無ティーポット論をとるのである」
天空のティーポットを信じる人とは比べものにならない数の、世界中の人々が神の存在を信じているからと言って、論理的な立証責任を負うのがそれを批判する側になることはない
そこでドーキンスは、宗教を進化の産物と見る理論について検討している。「自然淘汰の及ぼすいかなる圧力(それは一つとは限らない)が、そもそも宗教への衝動を進化させたのかを問うべきである」とし、進化の産物、とりわけ副産物として宗教を捉え、「ダーウィン主義にもとづく究極因的説明」を目指すのである。例えば、ロウソクの炎に飛び込むガの神経系は、普段は月や星の光に導かれる、役に立つコンパスとしての機能をもっているが、それが人工的な光に導かれると誤作動となり、炎に飛び込んでしまう。それと同様に、「宗教的な行動は、別の状況では有益な、あるいはかつては有益だった、私たちの心理の奥底にある性向の誤作動、不幸な副産物なのかもしれない」ドーキンスはさらに「私はむしろ、宗教はそういった傾向の多岐にわたる、いくつもの副産物と言いたい」とする。
宗教が偶然得られた副産物―何か有用なものが誤作動した結果―だという、あくまで一般的な理論を推奨したいと思う。議論の詳細に眼をやれば、そこは多様かつ複雑で、議論の余地もある。だが当面は、「副産物」説の代表として、私の「騙されやすい子供」説を使いつづけることにしたい
「騙されやすい子供」説とは、まず、「大人の言うことは疑問をもたずに信じよ」という経験則があり、それは子どもにとって一般的には有益で淘汰上の利益があるということである。「疑いをもたず服従する」という行動には生存上の価値がある。また、幸運が果たす役割もあることを人間原理から論じる。私たちが、私たちのような種類の生物に好都合な惑星に生きているのはなぜなのか、という理由について、ドーキンスは自然淘汰と人間原理の二つを挙げる。私たちはこの惑星の条件下で繁栄するよう進化してきた。一方、人間原理とは下記である。
宇宙には何十億という惑星が存在し、進化を可能にするような少数派の惑星の数がどんなに少なかろうが、わが地球は必然的にそうした惑星の一つでなければならないのである
しかし、人間原理はあくまで自然淘汰の考えを助けるものと考えているようである。つまり、ドーキンスは、生命の起源―あるいは真核細胞の出現や意識の芽生え―という一回限りの出来事については人間原理を適用でき、それは数多の惑星のうち地球で起こった幸運だったと言うことができるとする。しかし、「地球上の複雑な生命の豊かな多様性」を説明するのには、それとは別に、自然淘汰が必要になると考えるのである。 つまり、例えばもし脳に「神中枢」があるとしたら、「神中枢を発展させる遺伝的傾向をもつ私たちの祖先が、そうでないライヴァルに比べてなぜ、生きのびてより多くの孫をもつようになったのであろうか?」ということを問う。脳は専門的なデータ処理に対処するモジュールの集合であり、宗教はいくつかのモジュールが誤作動したことの副産物とみなせるとも述べている。しかし、そのような人間は、心のウイルスに感染しやすく、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないことになる。つまり、世界や道徳にかんするものも含め、さまざまな悪い忠告―ドーキンスが考える非合理的で宗教的な忠告―も信用してしまう。そしてそれをそのまま子どもに伝える可能性が高いため、迷信やその他の事実に基づかない信仰がダーウィン流の淘汰に似た過程によって進化するだろうという予測が立てられるというのである。
ここで、ミームという用語を造った当人であるドーキンスは、宗教はミームであるとし、「遺伝子のように真の自己複製子として振る舞う単位が、文化における模倣という現象についても存在するかどうか」を検討している。
一つの宗教の進化の初期段階、まだ組織化される前には、いくつかの単純なミームが、人間の心理に対してもつ普遍的な魅力のおかげで生き残る。ここは、宗教のミーム説と、宗教が心理学的な副産物とする説が重なり合うところである。後期になり、宗教が組織化され、他の宗教と洗練された恣意的なちがいをもつようになると、ミーム複合体―相互に適合性のあるミームのカルテル―の理論で非常にうまく扱うことができる。これは、司祭その他による意識的な操作が果たす付加的な役割を排除するものではない
また、「騙されやすい子供」説は〈教育〉の問題にもかかわる。ドーキンスは、子どもに親の宗教を教え込むこと、その宗教の子どもであると言うことを児童虐待の一種と考えている。ドーキンスは、「小さな子供がいずれかの特定の宗教に属しているというラベルを貼られているのを耳にしたときに、私たちの誰もが顔をしかめるようであるべきだと、私は思うのだ。小さな子供は、宇宙や、生命や、道徳の起源について自分の意見を決めるのにはまだあまりにも幼すぎる」とし、「〜教徒の親をもつ子供」という表現を推奨する。それにより、子どもが「宗教とは、大人になって物事を自分で決められるようになったときに自分で選べる―あるいは拒絶できる―ものだと気づくだろう」とも言う。
さらに、文学的教養の一部として、聖書やギリシア・ローマの神々にかんする伝説を―信じることなく―学ぶことは重要であるとする。同様に、「アラビア語やヒンドゥー語をしゃべる人々にとっては、『コーラン』や『バガヴァド・ギータ』もまたおそらく、彼らの文学的遺産の完全な評価のためには不可欠だろう」といったように、他の文化圏についても言及している。 だからこそ無神論はいくらかましと論じるのだ。
私はかならずしも、無神論が道徳性を高めると主張しているわけではないが、ヒューマニズム―しばしば無神論にともなう倫理体系―は、たぶん高まるだろう。もう一つありそうな可能性は、無神論が何か第三の要因、たとえば高等教育、知性、あるいは思慮深さといったものと相関していて、それが犯罪衝動を抑えるようにはたらくかもしれない。この件に関して現在ある調査にもとづく証拠をみるかぎり、宗教と道徳観の高さが正の相関をもつという、世間一般の見方はまちがいなく支持されない