ウォーラーステイン
1974『史的システムとしての資本主義』
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Ⅰ
資本主義の成立
第一にウォーラーステインは主題とも言える言葉より、本書を始める。
資本主義とは、何よりもまず歴史的な社会システムである。その起源や作用、当面の見通しなどを理解するためには、その現実のあり方を観察しなければならない。むろん、この実態を簡略に説明しようとして、一連の抽象的な言葉に頼ることもあるだろうが、その実態を判定し、類別するのにもこのような抽象的な表現を用いるとすれば、馬鹿げたことというべきであろう。したがって、そのようなやり方は避けて、次のような事柄を記述することにしたい。すなわち、実際のところ資本主義とはどんなものだったのか。それはひとつのシステムとして、どのように機能してきたのか。それはまた、なぜこのように発展してきたのか。これからどこへ向かって行きつつあるのか。こうした〔具体的な〕問題を論じようというのだ。
ではまず「資本主義とはどんなものだったのか。それはひとつのシステムとして、どのように機能してきたのか」から論じていく。そこでなされるは無論資本主義の定義である。
資本主義という言葉は、むろん資本に由来している。したがって、資本主義にとっては、資本が鍵をなす構成要素になっている、と仮定して大過あるまい。しかし、そもそも資本とはいったい何なのか。たんに蓄積された富という意味で用いるのも、ひとつの用語法ではあるだろう。しかし、史的システムとしての資本主義について何かを語ろうというのであれば、資本という言葉の定義も、もっと限定されたものでなければならない。それはまた、消費財のストックや機械ないし貨幣という形態をとった、資材への請求権だけを指すのでもない。たしかに、史的システムとしての資本主義においても、資本とは過去の労働の成果で、なお消費されていない部分を指す言葉だということはできる。しかし、それですべてだというのなら、ネアンデルタール人の時代以来のあらゆる歴史的システムは資本主義的であった、ということになってしまう。なぜなら、どんなシステムでも、過去の労働の成果をいくらかは蓄積していたからである。ここで史的システムとしての資本主義と呼んでいる歴史的社会システムの特徴は、この史的システムにおいては、資本がきわめて特異な方法で用いられる──つまり、投資される──という点にある。すなわち、そこでは、資本は自己増殖を第一の目的ないし意図として使用される。このシステムにあっては、過去の蓄積は、それがそのもの自体のいっそうの蓄積のために用いられる限りにおいて、「資本」となったのである。(...)それにしても、本書で資本主義的と呼ぶのは、資本保有者たちのこうした仮借のない、しかも奇妙に自己中心的な目標、つまりよりいっそうの資本蓄積と、この目標を達成するために、資本の保有者が他の人びととのあいだに取り結ばざるをえなくなった諸関係のことである。
では本書で定義された自己増殖を第一の目的とする意味での「資本主義」とはいつにはじまるのか。ウォーラーステインいわくその円環が完成されたのは近代だと云う。なぜならばいまでは一般化された円環を織りなす要素は、近代以前、様々な理由で阻止されてきたのだ。
特定の個人や集団が、よりいっそうの資本を得ようとして資本を投下するような例は、むろんいつの時代にもありえた。しかし、歴史上ある時点に至るまでは、そういう人びとがみごとに目的を達するということは、まずありえなかった。資本主義というシステムに先行した諸システムにあっては長くて複雑な資本蓄積の過程は、たとえその初期条件──過去に消費されなかった資財の少数者による占有ないし併合という──が存在したとしても、たいていは、あちこちで阻止されてしまったからである。たとえば、「資本家」に相当する人物にとっては、つねに労働力が得られるのでなければならなかったわけだが、ということは、アメでつられてであれ、鞭で強制されてであれ、然るべき労働をなしうる者がつねに存在しなければならなかった、ということである。労働力が得られて、商品が生産されたとしても、こんどはそれを何とかして売り捌かなければならない。ということは、流通機構と購買力をもった買い手の集団が不可欠だということである。しかも、商品は、その時点までに売り手が要した総コストより高い価格で売られなければならないばかりか、その差額が売り手自身の生存に要する金額をこえている必要もある。近代的なタームでいえば、利潤にあたる部分もなければならない。そのうえ、この利潤を得た者が、それを保持していて然るべきときに投資できる条件が整っていてこそ、はじめて最初の生産点に戻って全過程が更新されるのである。 じっさい、近代になるまでは、この一連のプロセス──資本の循環と呼ぶこともある──が完結することはめったになかった。
また他にも、ウォーラーステインは近代以前に円環を妨げた要因として、単なる不足の問題だけではないのではないかと推測する。「ひとつには、このプロセスを形成している連鎖の多くの環が、近代以前の歴史的社会システムにおける政治的・イデオロギー的な権威の保持者には、非合理的であるか不道徳であるか、あるいはその両方であるとみなされたという事実がある」。そしてさらに完成には「万物の商品化」さえをも必要とする。
かつての歴史的社会システムにおいては、こうした要素が欠けていることが多かったというのは、それらがまったく「商品化」されていないか、それほどでなくても「商品化」が不十分だったことが多いからである。つまり、その過程が「市場」を通じて取引できるものであり、また、そうされるべきものだとは考えられていなかったということである。したがって、史的システムとしての資本主義は、それまでは「市場」を経由せずに展開されていた各過程──交換過程のみならず、生産過程、投資過程をも含めて──の広範な商品化を意味していたのである。いっそうの資本蓄積を追求しようとした資本家たちは、経済生活のあらゆる分野において、いっそう多くのこうした社会過程を商品化してしまうことになった。資本主義は自己中心的なものだから、いかなる社会的取引も商品化というこの傾向を免れることはできなかった。資本主義の発達史には、万物の商品化へとむかう抗しがたい圧力が内包されていた、といわれるのはこのためである。
こうして「万物の商品化」をなしてもなお未だ十分ではない。なぜならばそれが総合されることでうまれる利潤が高くなければ、現代のようにそれは世界として交わらず、ローカルなものに留まる。
諸々の社会過程を商品化するだけでは十分でなかった。生産過程はまた、複雑な商品の連鎖のかたちで、相互に結びついてもいたのである。たとえば、資本主義発達史を通じて広範に生産され、売られた典型的な商品である衣料のことを考えてみればよい。一着の衣服を生産するにも、少なくとも布地と糸と何がしかの機械と労働力とが必要である。しかし、考えてみると、ここにあげたひとつひとつのものもまた、何らかのかたちで生産されなければならないわけだ。しかも、それらの生産に使われるいろいろな要素もまた、それぞれに生産されなければならない。ところが、こうした商品の連鎖におけるすべてのサブ・プロセスが商品化されてしまうとは限らない。というより、そんなことは一般的でさえないのだ。じっさいには、後述するように、連鎖のすべての環が商品化され切っていない場合の方が、高い利潤が得られることが多かったのである。
ウォーラーステインの意味での資本主義は、こうした封建的な障害を乗り越えてようやく完成されたのであり、その意味で資本主義の可能性は絶えず封建制のうちに眠っており、突如として羽化した社会システムでは一歳ないのだ。
Ⅳ
近代世界と結びつき、その頂点を飾っている思想をひとつあげるとすれば、それは進歩の思想ということになろう。むろん、こう言ったからといって、すべての人が進歩を確信してきたなどと言いたいわけではない。フランス革命時代にもあったが、主としてはそのあとから起こった保守派と自由主義者のあいだの大イデオロギー闘争において、保守派の立場の基礎となったのは、現にヨーロッパや世界が経験しつつある諸変化が進歩を意味するものだという主張への疑念であり、そもそも進歩などという概念そのものが適切で意味のある概念なのかどうかという疑念であった。しかし、周知のとおり、時代を先取りしたのは自由主義者であり、一九世紀にこの長命な「資本主義的世界経済」の主流をなすイデオロギーとなったのは、自由主義者のそれであった。自由主義者たちが進歩を確信したのは、驚くにはあたらない。進歩の観念こそは、封建制から資本主義への移行過程全体を正当化するものであった。それは、万物の商品化に反対する〔封建〕遺制を打倒する行為を正当化し、弊害を遥かに凌駕する利益があるという理由で、資本主義批判を一掃する役割をも果たした。このような事情からすれば、自由主義者が進歩を信じたのはけだし当然であった。