ウォーラーステイン
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Ⅰ
資本主義の成立
第一にウォーラーステインは主題とも言える言葉より、本書を始める。
資本主義とは、何よりもまず歴史的な社会システムである。その起源や作用、当面の見通しなどを理解するためには、その現実のあり方を観察しなければならない。むろん、この実態を簡略に説明しようとして、一連の抽象的な言葉に頼ることもあるだろうが、その実態を判定し、類別するのにもこのような抽象的な表現を用いるとすれば、馬鹿げたことというべきであろう。したがって、そのようなやり方は避けて、次のような事柄を記述することにしたい。すなわち、実際のところ資本主義とはどんなものだったのか。それはひとつのシステムとして、どのように機能してきたのか。それはまた、なぜこのように発展してきたのか。これからどこへ向かって行きつつあるのか。こうした〔具体的な〕問題を論じようというのだ。 ではまず「資本主義とはどんなものだったのか。それはひとつのシステムとして、どのように機能してきたのか」から論じていく。そこでなされるは無論資本主義の定義である。
では本書で定義された自己増殖を第一の目的とする意味での「資本主義」とはいつにはじまるのか。ウォーラーステインいわくその円環が完成されたのは近代だと云う。なぜならばいまでは一般化された円環を織りなす要素は、近代以前、様々な理由で阻止されてきたのだ。
特定の個人や集団が、よりいっそうの資本を得ようとして資本を投下するような例は、むろんいつの時代にもありえた。しかし、歴史上ある時点に至るまでは、そういう人びとがみごとに目的を達するということは、まずありえなかった。資本主義というシステムに先行した諸システムにあっては長くて複雑な資本蓄積の過程は、たとえその初期条件──過去に消費されなかった資財の少数者による占有ないし併合という──が存在したとしても、たいていは、あちこちで阻止されてしまったからである。たとえば、「資本家」に相当する人物にとっては、つねに労働力が得られるのでなければならなかったわけだが、ということは、アメでつられてであれ、鞭で強制されてであれ、然るべき労働をなしうる者がつねに存在しなければならなかった、ということである。労働力が得られて、商品が生産されたとしても、こんどはそれを何とかして売り捌かなければならない。ということは、流通機構と購買力をもった買い手の集団が不可欠だということである。しかも、商品は、その時点までに売り手が要した総コストより高い価格で売られなければならないばかりか、その差額が売り手自身の生存に要する金額をこえている必要もある。近代的なタームでいえば、利潤にあたる部分もなければならない。そのうえ、この利潤を得た者が、それを保持していて然るべきときに投資できる条件が整っていてこそ、はじめて最初の生産点に戻って全過程が更新されるのである。 じっさい、近代になるまでは、この一連のプロセス──資本の循環と呼ぶこともある──が完結することはめったになかった。 こうして「万物の商品化」をなしてもなお未だ十分ではない。なぜならばそれが総合されることでうまれる利潤が高くなければ、現代のようにそれは世界として交わらず、ローカルなものに留まる。
諸々の社会過程を商品化するだけでは十分でなかった。生産過程はまた、複雑な商品の連鎖のかたちで、相互に結びついてもいたのである。たとえば、資本主義発達史を通じて広範に生産され、売られた典型的な商品である衣料のことを考えてみればよい。一着の衣服を生産するにも、少なくとも布地と糸と何がしかの機械と労働力とが必要である。しかし、考えてみると、ここにあげたひとつひとつのものもまた、何らかのかたちで生産されなければならないわけだ。しかも、それらの生産に使われるいろいろな要素もまた、それぞれに生産されなければならない。ところが、こうした商品の連鎖におけるすべてのサブ・プロセスが商品化されてしまうとは限らない。というより、そんなことは一般的でさえないのだ。じっさいには、後述するように、連鎖のすべての環が商品化され切っていない場合の方が、高い利潤が得られることが多かったのである。
ウォーラーステインの意味での資本主義は、こうした封建的な障害を乗り越えてようやく完成されたのであり、その意味で資本主義の可能性は絶えず封建制のうちに眠っており、突如として羽化した社会システムでは一歳ないのだ。
Ⅳ