第36回:松尾馬生「奥の裏道」
ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔
第36回:松尾馬生「奥の裏道」
元祖ハッカー、竹内郁雄先生による書き下ろし連載の第36回。今回のお題は「松尾馬生『奥の裏道』」。
ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです(これまでの連載一覧)。
文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki
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読者は松尾馬生(ばせい ※1)をご存知だろうか? 本名は不明だが、とあるソフトウェア会社の上級プログラマとして苦難の道を歩んだ人である。大昔に引退して、山奥の一軒家に隠遁していたが、今は行方知れずである。しかし、彼が昔書いた「奥の裏道」が、彼の住居(すまゐ)のカビだらけの押入れから発見された。書いた紙が酸性再生紙であったため、紙は茶色にまで変色してボロボロ、しかも2Hの鉛筆で書かれていたため、文字がほとんど読み取れない。しかし、そこからはただならぬ気配が漂っていた。ソフトウェア工学の研究者たちがそれを判読・解読すべく努力をしたのは言うまでもない。 ◆ ◆ ◆
「奥の裏道」には、松尾芭蕉の「奥の細道」をなぞるがごとく、プログラミングに関わる業務の苦悩が記されている。例えば序文の冒頭はこうである。
人月は百円台の価格差を競いて、勇気買う投資も、猫にまたたびなり。
胸の中に障害を思い浮かべ、馬の骨とらえて老いをむかふるものは、
日々旅にして、現場を栖(すみか)とす。
古人も大くたびれして死せるあり。
その意味は以下の通りである。
ソフトウェア会社の人月の価格競争は百円台の差での攻防であり、社員の技術力向上のための投資もままならない。しかし、あるリーダーの勇気ある提言を買って技術力向上の投資を行ってみたら、現場プログラマたちは、猫にまたたびを与えたごとくゴロニャンとしてしまい、思ったような技術力向上が得られなかった。
上級プログラマたるもの、胸にはいつも障害を思い浮かべ、馬の骨のようなプログラマたちをつかまえてあれこれ指示を出すが、それだけで年を取ってしまう。年中出張して、障害が起こった現場で泊り込みのデバグを行うのが辛い。
昔の人たちも、こんなふうに大変くたびれて、死んでいったのであろう。
注目したいのは、松尾芭蕉の「奥の細道」の序文の冒頭との驚くべき類似性である。ちなみに該当部分はこうなっている。
「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。
舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々旅にして旅を栖(すみか)とす。
古人(こじん)も多く旅に死せるあり。」
このように著作権侵害ギリギリまで攻め込んだ馬生は、ライバル会社のソフトウェアの(それと分からぬような)コピーに非常に長けた人だったのではなかろうか。「奥の裏道」を書くのに意図的に薄い2Hの鉛筆を使ったのは、そのあたりに理由があるかもしれない。
この序文を書き、馬生はソフトウェア開発の真理を求めて、旅に出ることを決断する。会社の受注が減ってひまになったこともあった。旅に出るのに最初に詠んだ俳句は
臭(くさ)の屁も すぐわかる代(よ)ぞ ひまの家
ここで「家」はソフトハウスの「ハウス」のことである。忙しいときはそれどころではなかったのに、臭い屁にすぐ気づくくらいにひまな家になってしまった。もうここには私のいる場所はない、おひまをいただくという意味の歌である。これも序文にある芭蕉の句
「草の戸も 住替(すみかわ)る代(よ)ぞ ひなの家」
と、字形も含めて驚くほど類似している。季語がないと言ってはいけない。納期に後(おく)れることを意味する「期後」は馬生にとって禁句だった。馬生は俳句を超えた新しい境地を切り開こうとしたのである。
ゆっくりした旅だったので何日か経って、馬生は日光に着いた。芭蕉はここでは次の句を詠んだ。
「あらたうと 青葉若葉(あおばわかば)の 日の光」
馬生の句もこの後を追う。しかし、詠われているのは日光の風景ではなく、前にいた会社の情景である。
あらたうと 紅葉若葉(もみじわかば)が 日々残り
あら、とうとう、使えない高齢者プログラマと、使えない初心者プログラマだけが、日々残っていくようになった。できる中堅プログラマはどんどん去っていく。これが売れないソフトハウスの宿命なのか、という意味である。侘しいわりに色彩りが芭蕉より華やかで明るいのが皮肉である。
芭蕉は旅の後半の市振(いちぶり)で次の句を詠んだ。
「一家(ひとつや)に 遊女(ゆうじょ)も寝たり 萩(はぎ)と月」
さすがの芭蕉も恥ずかしかったのか、これは自分では書きとめず、弟子の曽良(そら)が書きとめたとある。しかし、馬生は仙台に来て、以前の仙台へのデバグ出張で、仙台銘菓「萩の月」(写真1)を会社のお土産に買って帰ったことを思い出した。 hw036_ph01_DSC04958_x610.jpg
写真1:仙台銘菓 萩の月(撮影:風穴)
ここは文字がかすれて判読しにくかったので3通りの詠みが併記されている。
ひとつやり 遊女もねたり はぎのつき
この詠みだと、お土産にした萩の月を引出しの中で消費期限オーバーさせてしまったが、隣で仕事しないで遊んでばかりいる女性社員に1個やったら、喜んで食べ、翌日はお腹をこわして寝込んでしまったという意味になる。馬生はよほどこの女性社員が嫌いだったのだろう。しかし、句としてはちょっと品がない。
ひとつやり 遊女もにたり はぎのつき
この詠みだと、お土産の萩の月を1個やったら、その女性社員がニタリとしたという意味になる。これではまったく感興が湧かない。というわけで、最も本来の詠みに近いと思われるのが以下である。
ひとつやに 遊女もねたり はげのつき
すでに頭髪が薄くなっていた馬生にとって、同じ宿に遊女も寝ていることを知った喜びは大きかった。プログラミングの悩みを忘れ、禿げ男にもツキがあったと詠んだのである。きっと彼女らになけなしの萩の月を差し入れたに違いない。馬生も普通の男性であったことを示す句である。
平泉では、芭蕉の「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢の跡」に触発されて次の句を詠んでいる。
「埋め草や 兵(つわもの)どもが 無理の跡」
ここで、兵(つわもの)とは動員されたプログラマのことである。1行いくらの契約で受注したソフトウェアだったため、彼らはプログラムの行数を水増しするためにたくさんコードを書くが、当然それらは埋め草である。プログラムを見ればそれが無理筋だということはすぐ分かる。その虚しさが馬生の心を打ったのであった。 こういった際どい「創作」を重ねて、馬生の句は深みをどんどん増していく。芭蕉を超えたと言ってもいいような珠玉の傑作が続く。山寺の立石寺では、有名な
閑(しずか)さや 椅子にしみ入(い)る ボスの声
を詠んだ。
会社の部屋、人は多いのにシーンとしている。山寺の巌(いわお)のような顔のボスが開発の遅れに対して、大きな罵声を発しているのだ。それなのに何故か閑(しずか)さを感じる。そう、罵声は誰の耳にも入っていない。ただ閑に椅子にしみ入っているだけ……。馬生は自分の名前と罵声を重ね合わせて、自分の声が部下のプログラマたちに届かなかった思い出をこの句に織り込んでいる。この人情の機微を捉えた馬生の句は、芭蕉の単なる夏の風物詩「閑(しずか)さや 岩にしみ入(い)る 蝉(せみ)の声」の句よりずっと深い。
さらに西進北上した最上川ではこれだ。
五月雨(さみだれ)を あつめてやばし もがきかな
バグレポートや細かい仕様変更が五月雨のようにやってくる。ひとつひとつは大したことではないのだが、それがどんどん集まってくると、重複したバグレポートの整理もままならず、上級プログラマであった馬生はただひたすらにもがくしかない。句に「最上川」という文字面はないが、増水した最上川でもがく溺人(おぼれびと)と自らの運命を、韻を踏んで重ね合わせた名句である(※2)。
このような至高の境地に達した馬生は芭蕉と同じく7月(文月)とうとう越後路に至る。そこで佐渡を臨む砂浜に出る。おりしも月明かりはなく、天の川がうねりざわめいている。しかも、それらの明かりに照らされた海原(うなばら)は白波(しらは)を立てて荒れている。そこで彼が見たのは、
荒海(あらうみ)や 佐渡によこたふ 飴(あめ)の皮(かわ)
だった。
この雄大な景色の中で、彼は砂浜にカンロ飴の透明の包み紙が心無く捨てられているのを見てしまったのだ。それは街灯の明かりをキラリと反射していた。これは「この雄大な景色に対するバグだ!」と彼は直感したのである。どんなに完璧なシステムを作ったとしても、カンロ飴の皮1枚のバグで台無しになる。そのとき彼の頭にはボスの「カンラ、カンロ」という無意味な高笑いの声までが響き渡った。
それにしても遠くの佐渡と至近距離の飴の皮が遠近法を超越した形で句の中に織り込まれている。遠近の拡がりがすさまじい句だ。
芭蕉の時代はよかった。キラリと光る飴の皮などなかった。だから、自然に天河(あまのがわ)のほうに目が向いたのである(※3)。
砂浜は尽きるとも、バグは尽きまじ。それを見てしまった馬生はこの名作を最後に2Hの鉛筆を折ることになる(※4)。「奥の裏道」はここで未完のままに終わったのである。(つづく)
※1:さすがに一歩下がって、ばしょうとは読まないようだ。
※2:芭蕉の句は「五月雨を あつめてはやし 最上川」。
※3:芭蕉の句は「荒海(あらうみ)や 佐渡によこたふ 天河(あまのがわ)」。夏だと、よこたふというよりも立って見えたはずである。
※4:馬生は2Hの鉛筆に、俳人らしく「Too Hard」の意味を込めていたと唱える研究者もいる。