第1回:ハッカーは二度死ぬ?
ハッカーの遺言状──竹内郁雄の徒然苔第1回:ハッカーは二度死ぬ?
元祖ハッカーで、未踏プロジェクト統括PMとしても知られる竹内郁雄先生の書き下ろし新連載です。
ハッカーは、今際の際(いまわのきわ)に何を思うのか──。成し遂げてきた数々のハックが走馬燈のように思い出されるのか、あるいは、直し切れなかった無数のバグへの悔恨に打ちひしがれるのか、あるいは……。ハッカーが、ハッカー人生を振り返って思うことは、これからハッカーに少しでも近づこうとする人にとって、貴重な「道しるべ」になるはずです。
本連載は、毎月第4週に掲載していく予定です。竹内先生への質問や相談を広く受け付けますので、編集部、または担当編集の風穴まで、お気軽にお寄せください。
文:竹内 郁雄
カバー写真: Goto Aki
ハッカーの遺言状(1):カバー写真:著者近影
その昔、このページをご覧の多くの方が、多分まだ生まれていなかった1967年に「007は二度死ぬ」という、ジェームズ・ボンドが活躍する映画が作られた。撮影地は日本だった。ボンドガールは浜美枝。
これを書いている鵺(ぬえ)、こと竹内郁雄は、007の二度目の死の30年後の1997年3月21日(金)に一度死んだことになっている。ただし、少し正確さを欠いていて、実際は紅白の垂れ幕が派手に飾られた部屋で生前葬を行なったというのが正しい。私が長年勤めたNTT研究所を退職し、大学に移ることになったのを「記念」した、一見オゴソカ風だが(どこが?)、私のアホな行動記録を振り返って酒の肴にする、単なる飲み会であった。
ハッカーの遺言状(1):画像:1997年に行った「生前葬」の「お知らせ」(Webページの画面キャプチャ)
1997年に行った「生前葬」のお知らせ。
会場はなんと研究所の中の一室。当時の研究仲間たちが自然に集う、見ての通り、機材がごちゃごちゃ、井戸端会議場のような雑多な部屋である。昔はよかったと言うつもりはまったくないが、当時の研究所にはまだこんな「遊び」があった。なんと、この記録はちゃんと長篇ビデオに収録されていて、この機会に2時間を超す全編を初めて再生してみた。その中から、現場の雰囲気が伝わりそうなスナップショットを紹介しておく。当時のビデオなので画像が不鮮明なのはご容赦願いたい。
ハッカーの遺言状(1):写真1:「生前葬」で記帳する、尾内先生(現電通大教授)
弔問受付所。記帳を終えてこちらを向いたのは畏友尾内理紀夫 現電通大教授。これを聞いてまだ生きているのは反則だというくらいの、心に染み入る弔辞をいただいた。
ハッカーの遺言状(1):写真2:生前葬の様子(全景)
生前葬が始まる直前の室内。手前に、早くビールを飲みたい一心の30名近い人が並んでいる。
ハッカーの遺言状(1):写真3:「死者」が横たわるそばで、一人一人、焼香しているところ。
焼香の一幕。「死者」は椅子の上に横たわりながら、ビールを飲んでいる。不安定な椅子の上に横たわってビールを飲むのは難しかった。お香の匂いが空調ダクトを通して、研究所の建物中に広がったのは想定外だった。
ハッカーの遺言状(1):写真4:東大に「遷宮」(?)された「遺品」の数々。
私が東大在籍中に、生前葬の「遺品」がNTTの研究所の片付けで発掘されたということで教授室に遷宮(?)されたもの。当時、教授室に来られたお客さんが、これを見てしばし絶句されたのであった。
最後に、遺言を述べろと言われたのだが、すでに酔っ払ってしどろもどろだったので、まともな話ができなかった。その怨念が私をして浮世と冥界の間をさ迷わさせしめ、今日に至ったのである。15年以上も生き恥をさらし、かつ二度も大学の最終講義を行なって恥の上塗りをし、いよいよ遺言状を書くしかないお年頃となった。一度死ぬ目にあってから改心し、立派な仕事を成し遂げた人がたくさんいるのに、こんないい加減なことでは申し開きが立たないが、これからしばし「遺言」を綴りたい。遺言といっても、財産でもなく、お説教でもない。なんだか変な面白い話もあるのだなぁと、読者の記憶の片隅に留まってくれれば、かつ、そういうのが遺産と言えるのであれば、これに優る喜びはない。というわけで、副題は風穴さんと相談の上「竹内郁雄の徒然苔」とした。草には到底及ばないし、遺言に相応しく、苔むした話も多かろうからである。
ちなみに、いまでこそ「生前葬」で検索すると、いろいろ出てくるが、当時はまだ珍しかった。この2~3年あとに、某TV局から生前葬の特番を制作したいのだが、出てくれないか、と電話がかかってきたときは、応対に困ってしまった。
ところで、この変てこな生前葬には、主催者、つまりNTT研究所の後輩たちの、意図せざる(?)意図が込められていたと思う。当時私は50歳だったが、それでもまだ頑張ってプログラムを書いていた。それが大学に移ったら雑用に追われ、もうあんな風な無茶苦茶なスタイルでプログラムを書くことができなくなるはずだ。つまり、ハッカーというのはちょっとおこがましいが、プログラマとしての竹内の葬式だったわけだ。しかし、生前葬の1年ほどあとに、かなり大きな、しかも超低レベルの80ビット水平マイクロプログラムで実時間ゴミ集め(ガーベジ・コレクション)を書き上げてしまったので、みんなの意図だか思惑だかは外れたと言っていいだろう。
ところが、世の中にはプログラマ35歳定年説なるものが蔓延している。いや、実態はさらにひどくて大企業に就職した凄腕プログラマは30歳前にもうプログラムを書くことを止めさせられているらしい。これには有象無象の「プログラマ」や「下請け企業」を擁する企業全体での生産性向上のための方策ということなのだろうか。できるプログラマなら、他の(できない?)プログラマの仕事をリードできるという算段かもしれない。
でも、できるとか、できないというのはなんなのだろう? 私はことプログラミングに関しては、プログラミングができるか、できないかは、つまるところ、プログラミングが好きか、好きでないかということと、ほぼ等価だと思っている。「好きこそものの上手なれ」と言うが、プログラムを書いて、あ、うまくいったと感じる経験が積み重なれば、自然とプログラムができるようになるのだ。しかし、これが企業の論理とときどき相容れなくなる。
1999年3月、情報処理学会全国大会の「世紀末討論会:20世紀、コンピュータ・サイエンスは何の役に立ったか? 〈現場エンジニア vs 理論研究者たちの壮絶バトル〉」という刺激的なお題の公開パネルを私が司会することになった。これはなんと3時間にも及ぶパネルだった。予告には「内容とパネリストを考えますと、侃侃諤諤の議論になることが予想されますので、心臓の悪い方は聴講をご遠慮下さい」と書いたのだが、200人以上入る教室は時間が経つにつれ、満杯になり、ついに立見も出るようになった。私がつまらない発言にはイエローカードを出すと言明し、サッカー審判のカードを2枚用意して(私はなぜかいまでも一応東京都サッカー協会の3級審判員の資格をもっている)、パネリストを脅したこともあり、パネル自身は大いに盛り上がった。実際、1回はどなたかにイエローカードを出したと記憶している。すみませんでした。幸い、レッドカードの出番はなかった。そのうち、満杯になった会場に挙手アンケートをしたり、発言を振ったりしたので、会場の方々も大いに乗ってくれた。
そのとき感銘したのは、会社ではプログラムを書けない、あるいは書きたくないプログラムを書かされていて、自宅に戻ってから、自分の好きな言語で、好きなプログラムを書いているとおっしゃった人が驚くほど多かったことである。これはあきらかにプログラマ35歳定年説に対する「抵抗」だと思う。司会をしていて、こういう人たちを大切にできない会社は先が暗いのじゃないかと思ってしまった。
読者の中にもこのような方がいらっしゃるのではなかろうか?
(つづく)