楊井愛唯「日吉台地下壕博物館」
https://gyazo.com/94525404fffb951521fe5ec566d1f961
現在、戦後 77 年が経過した今、ロシアのウクライナ侵攻など国際情勢が悪化する中、戦争の記憶の風化がすすみ戦争への抑止力が弱まっているように感じる。
戦争経験世代の減少とともにヒトからではなく、モノからヒトに歴史が伝えられていくことが増える中で、 建築は場所や人の記憶を蓄え、後世に引き継ぐことができる機能があると感じる。同時に、実際に戦時中に使用されていた施設 などの戦争遺跡はそれ自体に価値があり、記憶や歴史を辿る手がかりとなる。ただ説明文を読み、展示物を見て思いを馳せただけでは記憶が継承されたことにはならない。
そこで、戦争遺跡を用いて、空間体験で戦争を体験させる博物館を提案する。 そのものに深い歴史がある戦争遺跡意を用いて、戦争で被った負の記憶を追体験させることで、それが自身の経験となり、より深く戦争の記憶を人々の心に刻み込むことを期待する。
01 敷地
敷地は、太平洋戦争期に慶應大学日吉キャンパスの地下に掘られた連合艦隊司令部地下壕である。
https://gyazo.com/32d067415c0f849df36b08471c85131e
▲周辺敷地 ▲計画敷地
01-1 慶應義塾と海軍
東急東横線日吉駅の東側一帯には慶應義塾の高校や大学校舎が広がって建設されている。日吉に慶應義塾が開設されてから 10年が経過した昭和19年、太平洋戦争が熾烈となり学徒出陣や勤労動員によって空き教室ができると、文部省の指示に従い慶應義塾では日吉第一校舎、寄宿舎等を海軍に貸与することになった。第一校舎はコンクリートで建設され、非常に堅牢なつくりであったことから、はじめに軍司令部第三部、人事局、建設部隊等、 連合艦隊司令等が移ってきた。現在から 88年前に建設された建物であるが、現在も耐震性に問題はなく慶應の高校生の校舎として 利用されている。
後に海軍総司令部や航空本部が移転してくると、海軍の最重要作戦の指令は日吉で決定されるようになる。移転直後から海軍は校地の 地下に堅牢な地下壕を突貫工事で建設し、日吉一帯に掘られた地下壕の全長は 4.6 kmにも及ぶ。
連合艦隊司令部となった寄宿舎は 1937 年に谷口吉郎によって設計されたもので、南寮・中寮・北寮・円形浴場のローマ風呂 で構成され温水床暖房、水洗式トイレなどの豪華な設備から当時は「東洋一」と称された。海軍が移転してくると中寮で作戦が 練られ、緊急時には地下の作戦室と行き来して利用されていた。
01-2 日吉台地下壕の現状
日吉一帯の地下に張り巡らされた帝国海軍の地下壕であるが、戦後 50 年以上非公開とされてきた。1980 年代に入ると慶應義塾の調査によって、太平洋戦争期の最重要施設、かつ「戦争を指導した場」であり戦争の加害の側面をもつ場であることが判明した。 その後 89 年にボランティア団体である「日吉台地下壕保存の会」が発足し、現在も活動を行っている。
現在、内部を見学できる状態であるのは慶應大学のキャンパス内にある連合艦隊司令部地下壕の一部のみである。しかし、時間経過により内部の保存状態が悪化していることや国や県が保存に積極的でないこと、慶應義塾の学生や地域住民でも地下壕の存在を知らない人が多いといった問題を抱えている。
https://gyazo.com/69a32b0fc5afce051e7aef0427afc7fd
▲内部詳細図
02 設計手法・計画概要
太平洋戦争期の日本の歴史を5つの章に分け、その年表に沿って、当時の記録や証言などから人々の感情を抽出し、博物館を進みながらそれらの感情を追体験する。
対象とする遺跡に手を加える際に、現在の地下壕の内部の状態に合わせて空間の特徴を変化させる。保存状態が比較的良い箇所は、手を加えずに保存し、反対に保存状態が悪く塞がれたり壊れている箇所は積極的に操作を行った。
https://gyazo.com/25e3f8887b993b9bad8eea623e5a0919
▲ダイアグラム
03 提案
地下の博物館を歩きながら当時の記憶を辿っていく。
https://gyazo.com/d4632ce0ce6e45837499704ff5e18455
▲地下平面図
ー第1章ー
日本の奇襲攻撃によって開戦した太平洋戦争。日本軍は奇襲に成功し、アメリカの太平洋における戦力に大打撃を与える。その後も東南アジア・太平洋の各地で日本軍は快進撃を続ける。
ー第2章ー
開戦から連勝続きの日本軍だったが、ミッドウェーでの敗戦以降戦線が停滞していき、日米の太平洋における攻守が交代する結果となった。
https://gyazo.com/2184bcec55b9be2b0f3026c54f01c73f
ー第3章ー
山本五十六長官の戦士やアメリカ軍の猛攻にあい日本は太平洋の島々で玉砕を重ねていく。サイパン島守備隊の日本軍や島に住む民間人たちは「天皇陛下万歳」と叫びながら断崖から実を投じて自決した。
https://gyazo.com/248ce9ebe59fd14cdb91153a29499d37
ー第4章ー
沖縄での本土決戦や本土空襲が本格化するといよいよ国民にとっても戦争が身近なものとなり始める。アメリカ軍による原子爆弾の投下は日本政府と軍部に大きな衝撃を与えることとなった。
https://gyazo.com/f313041bd7163f6b0d02f409d577f6ed
ー第5章ー
日本政府および軍部では、長く続いた戦争をどう終わらせるかが議論され、天皇はついにポツダム宣言を受諾することを決める。八月一五日、玉音放送がながれ、皇居前広場では日本の敗戦を告げる放送を国民が涙を流しながら聞き入った。
https://gyazo.com/1432f2e87afb189a076108195cf1c65c
https://gyazo.com/20ed904b67ef03a16ba1f61afcc69de1
▲地上平面図
https://gyazo.com/2038e55872f9114d399952e243fd8fc3
▲模型写真
講評:ここに入力(改行は不可)(山中新太郎)