凡夫伝
盛唐の太平は牡丹にあらず、芍薬で、大輪のはたと散るごとく、にわかに世は乱れた。
北の突厥は着々と力をつけ、虎視眈々と領土を狙うている。南海は常に荒れ、怒濤が港を襲い船は一向に出せぬ。西の砂漠は灼けつく酷暑、もはや遠き異国からの隊商の訪いも絶えて久しい。
これというのも、玄宗が寵姫に溺れ、その又従兄弟、狡猾尊大な楊国忠に勝手放題させる有様に天が激し、下界に天罰の矢を降らすからだ。稚児が洟たれればたちまちすするように、矢は放たれれば真っ直ぐに的へ飛ぶ。恐らくこの災厄は避けようがなく、精々いまを楽しむべきである。嗚呼、矢だ矢だ。というのが長安の都人の口々にのぼる噂であった。
異生はかくのごとき噂を嫌った。そしてそれを口にする俗物どももまた嫌った。何故か。ただ世の乱れるにまかせ、ひたすら下界に災厄の矢を射かけるだけの天の無情さと無責任も、その天を恐れはするものの、結局ただ身をまかせ、ひたすら目先の楽に走る民衆の無力さと無節操も、異生には腹立たしく感ぜられたからだ。蛾眉に惑わされ佞臣に執政をまかせる玄宗など、論外である。異生には政治的な反抗、すなわち革命への志向よりも、運命に対する反逆、つまり狂気の兆候があった。
天は憎し、だが民は情けなし。誰か、天に一矢報いる猛者はいないのか。と独り思う。
この一官吏は自らを評して凡夫と考えている。我まさに聖人には遠く及ばず、また愚人にしては多少の才があると。これは卑下でなく、諦観でもない、己の透徹した自負から来たものである、と信じていた。
異生は秘書省の校書郎(校正係)である。宮中図書の膨大な記録の集積に眩暈を覚えながらも、暇を見つけてはひそかに蔵書を読み耽っていた。
ある夜、底知れぬ不満を心中抱きつつ、灯下に書を漁っていた異生は、何気なく目を通した『列子』中に、「名人伝」なる一編を見出した。
曰く、趙の邯鄲の紀昌は霍山の甘蠅老師に弓の教えを請うた。そして奥義を極めにきわめ、弓を用いずに飛鳥を墜とすまでになり、更なる修行の末、とうとう木偶のごとき愚人となりはて、弓を見てもその名を思い出さなんだ。弓を用いずして的を射る、これ不射之射なる芸の真髄、また弓を忘るるは無為の境地、まさしく名人というべき哉。
異生は思った。まず、奇異なり。そして実も蓋もない、いかにも人を食った話である。いったいに、一矢をも放たぬ名手というものがありうるだろうか。いわんや、弓を忘れた名人など。しかし、この話にはどこか危うい魅力がある。おれの魂をざわつかせるものが。
おれは、そのうち何か自分でもわけのわからぬことをしでかしてしまうかもしれん。
半月ののち、異生の姿は荊山にあった。
黄帝が竜に乗り天に昇ったとき、下界に遺していった弓、烏号の言伝えがある山である。
異生は『列仙伝』中にこの逸話を見つけ、心中で小躍りした。そうだ、この烏号を用いれば、天まで矢が届くかもしれぬ。おれは凡夫だから、紀昌のように不射之射を会得することなど、きっと叶うまい。だが神の弓があれば、雲上の何者かに一矢報いることも夢ではなかろう。かつて黄帝は、襲いくる虎を斃すため弓矢を発明したという。いわば弓の帝、いや神といえよう。けだしその弓は百発百中、どこまでも届くはず。それに、人々の嘆きを啜った逸物なれば、天に弓引くにふさわしい。話によると、烏号なる銘は、黄帝の昇天を悲しむ人々の「嗚呼」という号泣になぞらえられたものという。因みに昇天の際、黄帝を慕う家臣は竜の鬚にすがったが、たちまち鬚は抜け落ちてしまったとか。
それからというもの、異生の眼には、全てが弓と矢に見えた。飛ぶ鳥の影は弓のようであり、まっすぐに進むさまは矢のようだ。大地は弓で、樹木は矢だ。何故なら、土の恵みは幹を天へ放つように育てるからだ。人はどうか。女が弓で、男が矢だ。毎朝、妻は夫を勢いよく家から送り出すではないか。異生はそこまで考えて、齢三十、いまだ独りの自らに気づき、ふと寂しい思いにひたった。しかしすぐにかぶりを振り、弓、弓、弓、と強く念じた。
かくのごとき妄想に憑かれたこの男は、ついに都を出奔した。夕刻に抜け出し、大枚はたいた駿馬を駈って駆け続け、翌朝はやくも荊山に到った。だがこれといった伝手があるわけでもなく、烏号の行方は杳として知れぬ。麓の村を訪っても奇妙な顔をされるのみで、何らの手がかりもなかった。それもその筈、三千年も昔の話である。
慰みに狩りでもせんと、黄帝の業を真似て、桑を弓と、葡萄を弦とし、竹をもって矢となしたが、所詮ただの模倣であり、兎一匹さえ獲れぬ。腹いせに天に向かい矢を放ったが、弱々しく放たれた矢の勢いはやがて失せ、中空でくるりと返るとかえって勢いを増し、ついには猛烈な速さで射手の眉間めがけ落ち来たった。すんでのところでこれをかわしたかつての一官吏・いまやただの自称凡夫は、頬傷から滲む紅い血に寒気を覚えた。
さらに半月、とうとう旅費も尽きかけ、異生は藁をもつかむ思いで幾度目かの荊山登りに挑んだ。
何度来ても、何と不気味な山だろう。楚の卞和はここで玉の原石を拾ったが、いまは近寄る人もなく、ただ虫の声や獣の気配がするのみ。手作りの弓と矢だけでは何とも心細く、登る足もしぜん速くなる。頂に着くと、ぽつりと立つ一本木の根元でいつものように休息をとった。
さて、ひょっとしたらこれが最後の登山ともなろうが、これからどうするあてもない。おれはいったい何事を成したというのか。男異生、ついに天へ弓引くことはできなんだ。都の俗人どもは、何と言っておれを嗤うだろう。嗚呼、我はやはり凡夫なり。と思うと何か無性に感が極まって、涙が溢れ出てきた。
そこに君子と思しき偉丈夫が雲の上からやってきて、一本木の枝に得体の知れぬ物を掛けた。
はっと気づけば、何時のまにやら寝入り、夢を見ていたらしい。異生は飛び起き、頭上を見上げた。間違いなく何か掛かっている。背伸びをしただけで苦労なく取れた。眼をかっと見開いて確かめた後、すぐに白目をむいた。それは虹色に輝く縄のようなものだった。あに図らん矢、これはきっと、黄帝を天に導いた竜の鬚だ。なるほど、世にも珍しき品には違いないが、矢んぬるかな、おれが捜していたのは、竜の鬚などではない。烏号だ。百発百中、どこまでも届く弓が欲しいのだ。
しかしすぐに、まさしく的を射た考えが心中に起こった。そうだ、黄帝は昇天するとき、烏号を捨てた。何故か。すでにそれは無用の長物であったのだ。黄帝は不射之射を体得し、見送る人々の心を射て号泣させた。そして無為の境地を体現し、弓を弓と思わず地上に遺したのだ。いや、もはやその時の黄帝には弓どころか、天と地の境も、聖人と愚人の別もなかったはず。しからば、名人と凡夫の違いもまたあるまい。黄帝はおれで、おれが黄帝なのだ。
いままさに丑三つ時、昇りはじめた三日月は、一本木の下で呆念とする男を仄かに照らす。
異生の万物に弓矢を見る病はいまだ癒えず、仰ぎ観る月は天に向けられた弓のごとく思えた。とするなら、弦は。竜の鬚があるではないか。では、矢は。まさかこの一本木ではなかろう。ならば、答えは一つ。
先刻まで自称凡夫であった狂人はこの時、生を享けて以来の爽快な満足を知った。
それからしばらくして、長安ではこんな唄が流行った。
月に鬚、洟たれ凡夫昇天す
行方知れずの異生に対する、皮肉まじりの追慕である。
それにしても、異生が矢なら、その弓を引き絞ったのは何者。貴妃が問い、玄宗たわむれに答えて曰く、射た者は無く、ただ弓と矢があった。これぞまさしく、もう一つの不射之射にあらずや。
では、その男はどこで何をしているの。再び答えて曰く、いまごろ天上に黄帝と遊び、天下ましてや弓のことなど忘れているであろう。そして秘かに思えらく、或いは凡夫異生、真に天に達し、黄帝と刺し違え、しかして世は……?
皇帝玄宗は何となしに、楊貴妃の横顔を見つめる。
まもなく安史の乱が起こり、ついに盛唐は終焉を迎えた。