ブルアカにおけるメタ要素シーンの存在理由
この文章はブルーアーカイブ メインストーリー 最終章、及び最終章4編「あまねく奇跡の始発点」に関するネタバレを含んでいるので、ネタバレを踏みたくない人は読むなください。
あと、筆者はあまねく奇跡の始発点までしか読んでません
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ブルーアーカイブには、メタ要素が存在する。
ストーリー最終章に入る直前で、ゴルコンダによって語られている。
要約すると、「先生が主人公だから上手くいってた。ここからは全てが入り混じる物語とすら言えない混沌と化する。先生の手では対処仕切れないから諦めろ。」的な内容。
結論からいうが、私はこれを「この物語は『先生』の物語である。『プレイヤー』の物語ではない。」と言っている内容だと解釈している。
ブルアカにおいて、何故このタイミングで急にメタ要素が語られたのか。そこに焦点を当てたいのだ。
そもそもメタ要素とは、「ゲームの中の登場人物がプレイヤーに語りかける様な演出」の事である。
有名どころだと、undertaleやDDLC(ドキドキ文芸部)なんかがそうだろうか。
ブルアカは、一見メタ要素なんて入れなくても良いように見える。だが、ブルアカ運営はメタ要素を突っ込んできたのだ。
では、何故だろうか?
なぜ、わざわざこのタイミングでメタ要素を入れてきたのか?
このゲームのストーリーは、いわゆる「ノベルゲーム」形式であるため、プレイヤーによる選択肢の選択にあまり意味はない。言わば、一本の線の上を歩いている状態なのだ。
だから、最終章に入る前に、今一度プレイヤーに「この物語は『先生』の物語であって、『プレイヤー』の物語ではない」という事を認識、強調させているのだ。
が、最終章の内容はどうだっただろうか。
先生が「大人のカード」を使う事が、ものすごく多かったのではなかろうか。
実際、ストーリー最終章で大人のカードとはどういう存在なのかがとてもよくわかったと思う。
そう。大人のカードを使うタイミング = プレイヤーの持っているキャラを使って戦わなければいけないシーンなのだ。
そして冒頭でも言った通り、「先生が主人公だから上手くいってた。ここからは全てが入り混じる物語とすら言えない混沌と化する。先生の手では対処仕切れない。」というのがメタ要素の内容である。
これは、「『先生』の力だけでは対処し切れず物語が成立しなくなるが、『プレイヤー』が干渉する事で物語の体裁を保つ事ができる」ともとれるのだ。
ここまでの話は、あくまでも「先生」の物語。
だが最終章は、「プレイヤー」も干渉する事が多い。
今までは傍観者であったプレイヤーも、この物語に参加出来る。
見ている側は終わりだ。
物語を、自らの手で進めようじゃないか。
という事を、強調したかった。
だから、このタイミングでメタ要素を入れたのではないか?
そう私は考察する。