自分の声音を文字で示すためにキャラクター風表現を試みる
気持ち
文字オンリーのコミュニケーションの最大の難点は「声音がないこと」だと思っている
声音がないとは
話者の意図を示す情報が大きく削られる
問題意識の程度がどれくらいなのか
拳を握りしめて語っているのか、「こうなのかなあ(ぼんやり)」なのか、表現が工夫されていないと割と判らない
文体は実際の気分を反映しているだけでなく語感をコントロールする役目もあるために、例えば文体の柔らかさが「角を丸めた」のか「芯がない」のかがパッと見では判らない
人となりを知っていれば容易に判ることでも、ネット上では人となりを知らないことのほうが多いので判別できない
その判別を話者の役職などに頼ると、話者それぞれの個性としての性格を考慮しなくなってしまう恐れ
例えば学者がみんな同じ性格なわけもない
批判なのか、連想ゲームなのか
Twitterで生じがちな無意味なヒリヒリ感
話者の文脈から外れたことを反応として言ったときに、それが話者の文脈への反抗として別の文脈を提示しているのか、単純に「ふとこれを連想したんですよ!」という話なのか
予め人間関係が構築されていないと判らない場合がよくある
(批判より連想ゲームのほうが多いとは思うが、連想ゲームかなと思ったら普通に「素朴な疑問」の顔をした上から目線系の批判を突きつけられたことがあるので警戒はせざるを得ない)
(のらてつではないアカウントでの話)
テンションがわかりにくい
意図的にテンションを示す書き方をしなければ、下手するとテンションの情報というものが全く含まれない
テンションがわからないとどういう人間かという基本的なことがわからない
熱いのか? 冷たいのか? 穏やかなのか? 義憤に燃えているのか? 正直なのか? 皮肉屋なのか? 堅物なのか? 面白いものが好きなのか?
言葉の端々からこうなのかなあ?と推測されることが、本当にそうなのかを確かめにくい
例えば常に「素朴な疑問なんですが」という調子で書かれたりすると、その人と気持ちがシンクロする可能性があるのかどうかがもうわからない
実際に声を通して会話をすれば全然不安を感じない人かもしれないのに
私が心がけようとしていること
「セリフ」を使う
例えば「『なんでこうなるんじゃ~~~!』って机叩いた」みたいな表現をするということ
ある種オタク的な文体であって、嫌な人は嫌かもしれないが
と思ったが、どちらかというと関西人的ノリと言ったほうが的確か
非東京的コミュニケーション?(わからん)
実際に「なんでこうなるんじゃ~~~!」と言ったかもしれないし言わなかったかもしれないし、机を叩いたかもしれないし机を叩くまではしなかったかもしれないが、例えばそこで「納得できなかった」と書いてしまったら私のテンションも性格も全く伝わらないのである
実際にそのセリフを口または心の中で言ったかどうか、机を叩いたかどうかは別として、その話題に対してそういう種類のテンションで反応する人間なのだ、と伝わるかどうかが大事だということ
つまりモデル化
誇張を伴う場合が多いが、必ずしも誇張とは限らない
程度を過剰にするというよりは、典型的表現を使うことによって一発で共有できるようにするということ
ある像を伝えるにあたって、実態そのままを見せても像は伝わらず、実態以上の演出によってやっと像が伝わる
例えば、素直にしていても素直な人だと必ず伝わるわけではない
文体の癖によって印象は大きく揺らぐ
今でこそフルボイスのゲームが当たり前だが、昔はゲームに声はついていなかったし、そもそも漫画や小説の状態では当然声などない
声はないが、性格もテンションも容易に判別できる
特にキャラクター小説はその点での工夫に満ちている
やり過ぎていることも多々あるが
容姿の設定の力もあるが、それは私たちにもアイコンというものがあるので同じ
別に自分をキャラクター化したいわけではない
私の人格はあくまで生身のリアルな人間である
「テキストしか使えない」という制約の中で性格やテンションを伝えるにあたって、キャラクター的表現が役立つであろうということ
(特に二次元の)オタクは自分の性格とテンションを相手に伝えられなければ全く話にならない場合が多いので、そういうコミュニケーションが発達するのは必然
補足
「ネットに生きる人はみんなそういう自己表現をすべき」などということを言いたいのではない
テキストだけになるとコミュニケーションが人と噛み合わない気がして悩んでいるなら気に留めてもらえたらもしかしたら前進するかもしれないが
のらてつのそのテンションはなんだ、と思われた場合には「こういう理由です」と答えたい