思索の置き場所の増減と公開ラインの浮沈
気持ち
考え事を書き込む場所を非公開に用意すると、公開したいと思う思索の量が減る
減少が気になっている
現状のイメージ
以前
【非公開】Obsidian
――ここまで気楽に書き込める――
現在
【非公開】Scrapboxの非公開プロジェクト
【非公開】Dynalist
【非公開】GitHub
【非公開】Obsidian
Twitter
――ここまで気楽に書き込める――
のらてつ研究所
Unnamed Camp
ブログ・note
気楽に書き込めるラインから遠ければ遠いほど更にハードルが上がる
のらてつ研究所への書き込みが大きく減る
ましてやUnnamed Campとの距離は著しく離れる感じがする
(ブログ類はちょっと感覚が別種なのでここでは考えない)
これは悪いことか?
悪い気がする要素
ツイートまとめも億劫になっている(気分の問題というより優先順位が下がっている)
今後次第な要素
数が減る代わりに濃い書き込みができるならプラス
そもそも他の人は非公開の場所にもりもり思索を溜めていってその中から「これは書くべきだろう」と思ったものを選択して書いている場合がたぶん多い
今までも非公開の場所に考え事は溜めていたが、どちらかというと単発の所感のようなもので、有機的な繋がりが生まれるような思索はそんなに多くなかった
ポジティブな要素
自分にとって自然に書き込みができるように非公開の場所を整えたことで、思索自体の回転数的なものは増した気がする
それがかえって「この程度の深さの記述を公開する気にはならないなあ」というブレーキにもなっている
そもそも何が起きていると言えるか
時間配分および注意を向けられる対象の数の問題
顔を出せる場所の数には限度がある
よって場所の数が増えるとアクティブに使えなくなっていくものが生じる
考え事の質の問題
深まっていなくても公開できると思うのは、深まった思索というものがないから?
というか、今後深まりそうかどうかの勘が働かない
事前に選別すべきではないが、しかしながらノイズが増えると繋がりを作るのは難しくなっていくという実感がある
理想全体に対する断片として小分けにして出す
全体を把握してから分けるという意味ではなく、睨むべき全体がなんとなく見えているかどうか
実際単にまだ断片しか手に入っていないから小分けの形になってしまう
自分が向かうべき先がなんなのかよくわかっていない
よって、解像度が上がったことでノイズを無闇に残さなくなっている
自分という存在の可視化・不可視化の問題
↑パブリックな場に何かアウトプットすることで自分が可視化される
↓書き込みが減れば不可視化される(存在感がなくなる)
とはいえ、ただ数を打てばいいというものではない
頻度が週一や月一でも濃いものを作れたらそれが良い
どう考えていったらいいか?
解釈非公開の思索の充実は良いことである
解釈公開の思索の数が減ることそれ自体は必ずしも気にすべきことではない
課題公開する文章の質を上げることが最優先
課題共同編集の場については、場の活性化に貢献したい気持ちがあるので意識的に優先順位を上げたほうが良い