己の言葉も負担になる
経緯
私自身が視覚優位タイプであるせいか、言語化され文字として書きつけられたものを一瞬でも見てしまうと、そのときの気持ちがぶわーっとよみがえってしまい、心に負担がかかります。そのことに気づいてからは、胸の内を吐き出したなまなましい記録は残さないようにしました。
言語化することは問題の根本を探すのにとても良い方法ですが、その一方で、言語化されてしまうと固定化されてしまい、いつまでも頭の中に居座ってしまうというデメリットもあります。記録として残す塩梅、自分にとってちょうどよいポイントを探すことも必要だと感じます。
とてもよくわかる
私も視覚優位
視覚優位だからこうなるのかはわからないけど、私も!と思ったのでちょっと嬉しい
言語化されてしまうと固定化されてしまい
これは固定化(モノ的に扱えるような形になる)によって排除も可能になることを意味していると思う
固定化したものを捨てて忘れてしまえば頭の中にもやもやと漂うこともなくなる(かもしれない)
逆にまた見返すと言語化以前は気体状だったものが今度は固体状になってドンと頭の中に居座る
これは良くない
なまなましいものは目に入らないようにしている
できれば捨てる
捨てていないけど視界には入れない、ということにすると捨てていないがために存在を思い出してしまうことがある
けど、すぱっと捨てられないこともある
それまでうまく自分の内面を言葉にできなかったけど吐き出せたということに価値を感じてしまうことがあるため
憤りを含むものの場合
徹底的に一般化することで学びだけを残してリアルな記録は捨てる、というのが割とうまくいく
徹底的に一般化すると「人間はこういう時にこうなりがち」のレベルまでいくので、「こういうタイプの人間は云々」みたいな怨恨の残る形にならない
「こういうタイプ」で終わるのは甘い(個人の見解です)
何かへの憤りによって生まれたものであったはずだというのは思い出せるけど元のエピソードを忘れる
でも私は今のところそんな感じだけどそうすれば必ず忘れられるものではないとも思う