吐露と前進のバランス
前提の情報
nora.iconはブログ類を何度も作っては削除し作っては削除しを繰り返している
今の所のらてつ研究所を削除したいと感じた瞬間はない
「のらてつ」でない名前がある
🤔
そういえば、吐露することに伴うストレスというのが過去から今にかけて明らかに変化している
「吐露したい」と「吐露した以上のことを勘繰られたくない」のせめぎ合いがあった
なお「吐露したい」はあくまで「吐露したい」であって、「共感を得たい」というのではない
ただ「あなたおかしいよ」と言われなければいい、という気持ちだった
しかし沈黙の中に「こいつ不愉快だな」と思われているのではないかという恐れはあった
あるいは「つまらないな」「時間の無駄だな」「作家気取りでウケる」「雑魚のくせに」etc
自分の想像の中の罵倒に耐えられなくなると吐露の場(ブログなど)を消し去って「無」の存在に戻る
「吐露」には効用がある
自分をガチガチに守り固めて内面を外に漏らさないように必死になっている、というのは大変なストレス
自分が救われるには少しずつ内側を出していく必要がある
これはつまり「ひらく」ということだが
(「救われる」という言い方に違和感がないではないのだが、伝わる言葉が他にあんまり思いつかない)
(握りしめている苦しみを手放すというイメージ)
一方で、ちょうどよく読んでもらわないと怖いということがある
ちょうどよく読んでくれる人が周りに少ないから不特定多数に発表せざるを得ないという状況
ちょうどよく読んでもらいたいのに不特定多数に読まれる恐ろしさ
カウンセラーとか友人とか、プロまたは個人的な関わりがある人ならば読み取り方を加減してちょうどよくしてくれるかもしれないが、そうでない他人はそんなことは知ったことではないという感じに読んでいく
実際問題赤の他人に配慮を求めるのはあまり現実的でない
なぜちょうどよく読んでもらわないと怖いのか
怖い理由はあれこれ挙げられるが本質的ではない気がするので「なぜ怖いままでいることになるのか」を考えると
結局のところ、反論・弁明ができないという不安があるからではないか
自己表現のコンプレックス
自分の中にある不快感や焦燥感をどう表現したらいいかわからない
自分の表現が人に伝わる気がしない
言えば言うほどまたちょうどよくない読みをされるのではという恐れ
誤解を部分ではなく全体として捉えて敵が巨大に見えている
なぜ誤解されたか、どこをどう読まれすぎたか、ということがよくわからない
全体的にすごい誤解をされているような気がしたとしても、分岐点はたった一点の勘違いであったならば、実質の誤解の元はごく限られた範囲である場合もある
読み手をまともだと思い過ぎている
感想を全て「普通の人の真っ当な感覚」として受け止めると何も言えなくなってしまう
逆に読み手を短絡的だと思い過ぎている
世の中そんなに分からず屋ばかりではない
理想としては吐露がただ前進の糧になる状態だとよい
自分が感じたことを表現する、そうするとポジティブな効果が生まれる、やったー という状態
nora.iconは気分にムラがあるので、シンプルにそう感じていられる日と、ウワー余計なこと書いちまったー死んだほうがマシだーと頭を抱える日がある
頭を抱えた結果「こんなブログ消してやるー!」まで行くかどうかの度合いの意味で、そこまでは行かなくなった