「生活の技術」考
経緯
Life問題
個人的には、「いのち」「生活」「人生」が「life」というひとつの単語で表されることに違和感がある
いのち>(いのちを継続するための)生活>(人ならではの生活の積み重ねが)人生
いのちは全ての生き物が前提として持っているもので、質の違いとかはない(あると主張する人もいるかも知れないが、私の中では無い)
生活は生き物の種と自然環境によって変わる
人ならではの生活は更に個人の性質と社会環境によって変わる
人生は人ならではの生活の積み重ね方と偶発的な経験によって変わる
この層全てを「life」と言ってしまうことは、「人間の思考能力ならではの試みを積極的に行っていくこと」と「人間が連綿と伝え重ねてきた情報・知識を備えていること」を併せて「知的」と呼んでしまうことと同種の不便さがあると感じている
全てをふわっとまとめたいときや「全ては繋がっている」と表現したいときには便利だが、それとは別にぴたりと言い表せる語彙が市民権を得ていないと話が曖昧になり無闇に複雑化する
そもそも人間の生活は知的である、という意味での「知的生活」をどう呼ぶか
(インテリ風の高尚なニオイがある生活の話ではない)
上述したのは「人ならではの生活」
正確には、「精神が健康である、または精神を健康にすることを目指している人ならではの生活」
心が弱って傷ついて暴れるのも「人ならでは」だが、そういう「人らしさ」はここでは含めない
むしろ「そこから立ち直れること」を「人ならでは」として考えたい
精神が健康であることを幸福であることとし、可能な限り精神的幸福を達成することを目指す心
Life問題の項では「個人の性質と社会環境によって変わる」ものと書いた
よって、「人ならではの生活」を主体的に送るには、主体である各人が「個人の性質」と「社会環境」をそれぞれ捉えていなければならない
すなわち、メタ認知と分析、そしてその結果を踏まえての「生活のデザイン」が必要
「工夫」「属人性」「自分らしさ」「柔軟性」etc.がここに関わる
自分の性質を認識することが前提であり、それを無視した適応は自分ならではの生活をデザインしたことにならない
また、「自分を認知し、自分を良い感じにしていく」ということが、「自分を効率化していく」「(敢えて苦闘して)障害を乗り越えていく」と合体すると歪んでいく
上述したように「精神的幸福を達成することを目指す心」が前提になければどんどんおかしいことになる
言い表しうる言葉はあるか(「~の技術」の形で)
「自分の生活をデザインする技術」「主体的生活の技術」
響きが怪しくなってくる表現→「精神的幸福を目指す生活の技術」「自分らしい生活を送る技術」
現実的には…
「生活の技術――自分の毎日をデザインしよう」みたいな感じで「生活の技術」にサブタイトルをつけるとかまえがきで意味するところを書くみたいな形を取るしかない感じがする
「自分に関係することだ」と思ってもらえる言い方をするには、「生活」の二文字から小難しい方向に進んではならないというか
例えば「主体的」と言ってしまったとすると、それは全ての人が当事者であるにも関わらず、「主体的っぽい人のためのもの」みたいなオーラを纏いだす
「自分らしい生活」だと手垢付きすぎだし「自分に都合の良い、楽な生活」の話だと思われかねない
変化を含むべきだが変化を主題にするのは違うという議論について
Life問題の項で人生を「人ならではの生活の積み重ね方と偶発的な経験によって変わる」ものと書いた
この「偶発的な経験によって変わる」という点の扱い方の話と言えそう
然るべき経験によって、生活の考え方が変わってしまうことはあり得る
しかし然るべき経験に基づかずに夢想することは単に「地に足がついていない」「現在を見ていない」ことだと言える
つまり、変わるべくして変わるのでない限り、個人の性質と社会環境に応じてデザインした生活を、微調整はしながらも無闇に変えることなく主体的に送り積み重ねていくことが、望ましい「生活」の在り方
微調整とはつまりブラッシュアップ
注意洗練されているっぽいこと、シンプルなこと、を目指すのではない
より自分の性質・精神・社会環境それぞれに馴染んで調和し軋みの少ない生活をすること
ただし一切軋まないことを目指して躍起になる必要があるかどうかはよく考える必要がある
「躍起になる」のはそれ自体が軋みを生んでいる可能性がある
「なるべく」とか「できるだけ」とか「コストを支払える範囲で」とかの断りを前提に置いたほうが良さそう
誰の人生にも苦難は不可避であり、それを完全に無くせる道を夢見るのは現実的でない
「よりよい」を、然るべきやり方で掴んでいくしかない
イメージの話
「生活のデザイン」とは、イメージとしては人生に於いてどういう行為と言えるか
自分がてくてくとことこ歩いている道を、つまずかないように石や障害物を除けて安全にしていくイメージがある
ただし「舗装」ではない
舗装は大掛かりなことであり、舗装してしまうとそこから外れるのが異端のような感じがする
障害物をぽいぽいと取り除けていくことは、道を変更することを後ろめたく思わせるものではない
https://gyazo.com/2507754e7805a6f3f62fc666dcef6a20
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