「想像力」問題―偏見は想像でできている―
rashita2: 昨今のいろいろな事柄は、想像力をめぐる闘争なのである、という話をどこかで書いてみたい。
nora.icon「ある」VS「ない」ではないんだよなということを考えたりしている。
nora.icon巷でよく言われる「想像力が必要だということなんですよね」の何も言ってない感。
nora.icon「想像力が必要だということなんですよね」の一文に想像力があるのかどうか。
nora.iconそもそもステレオタイプって想像でできているし想像を一層強化するものであるし、それをコントロールしたり封じたりする心掛けを「想像力」で言い表すこと自体に無理があるんでないかとか思ったりしなくもない的な。
nora.icon「想像力がある人」はむしろ「想像しないこと」に長けている。結局想像に使うエネルギーは偏見の塊な人間でも偏見なんかなさそうな人間でもほとんど変わらんのじゃないかと思う。想像のエネルギーを注ぐ場所が全く違うだけで。測る術はないので量の大小は論じようがないけども。
nora.icon「想像力を欠いた人間」として想像されている人々は、実際には「想像力がある人間」が思いもよらないとんでもない想像を叩きつけてくる。「想像力を欠いた人間」の想像力を「想像力がある人間」が想像するのはかなり困難に思える。「想像力」をもし「想像が及ぶ範囲の広さ」とするならば。
nora.iconもし「想像力」を「万人に対し尊厳を傷つけない言動を適切に選択し更に既に傷ついた尊厳があれば回復させようと自発的に努める能力」とするならば、そういうふうに表現しないと「ソウゾウリョクガヒツヨウナンデスヨネ」という無意味な文字の羅列になってしまうのではないかと思ったりなんだり。
nora.icon所謂「想像力がない人間」は、まさか自分に想像力がないとは思っていないであろうと想像され、それどころか想像力に溢れていると感じている可能性すらあり、「想像力が必要だ」という訴えにどれだけ意味があるかという疑問がまずあります。偏見に基づいて想像逞しくされたら事態は悪化さえしかねない。
nora.icon想像力がある側とされている人間が(つまり「想像力がない人間」を苦々しく見ている側が)、「想像力がない人間」に対してどれだけ想像を働かせられているのか? もちろん私も十分に想像などできていないだろう。きっと全てに対して想像が足りていないだろうし、それを自覚するたびに恥ずかしく思う。
「想像力」という言葉の定義の問題と、「想像力が必要」という訴えの有効性の問題を同時に喋ったので、ちょっと文意が混乱した感じがある
まず一般的に「想像力」とは、「相手の状況や思いが実際にどうであるかを考えようとする意思、およびその正確性」を指していると思われる
もっと言うと「万人に対し尊厳を傷つけない言動を適切に選択し更に既に傷ついた尊厳があれば回復させようと自発的に努める能力」
一方で、「想像力」という字面では「想像をどれだけ膨らませられるか」というイメージも伴っている
「想像力」の三文字に忠実に解釈するならばむしろそう捉える方が自然なのでは
前述の意味合いは、社会や人間関係に於いて「想像力」という語を用いる文脈に基づいた意訳である
そうなると、「想像力が必要」という言葉の意味は必然的に曖昧になる
要するに「他人の尊厳を守れ」と言いたいのか
あるいは「(理屈ではなく)想像によって物事を解釈しろ」と言いたいのか
当然前者の意味で言っているのだろうが、後者の意味で捉えられてしまったとき、むしろ悲劇が増える可能性すらあるように思う
なぜ悲劇が増えるか?
それはそもそも、偏見は想像によってできている(と私は思う)からである
事実の情報が足りない、あるいは事実を読解する力が足りていない、という状況にありながら、その時点でわかったと本人が思った範囲の情報だけを元に想像を膨らまして、あることないこと妄想した状態が偏見ではないか
自分が属するあるいは自分が目にするごく限られた範囲で通用しているルールを万人に適用して語ろうとするのも、つまりは「ここでこういうルールが成り立っているんだから、きっと全世界でそれが正しいんだ!」と想像することによって生まれている感覚
もし「想像しない」のなら、結論は保留されるはず
「わからないから、なんとも言えない」になる
例えば「○○という職業の人はきっとこういう人間に違いない」という偏見は、思いを巡らせる力を欠いているからそうなるので、一般的な意味で「想像力が足りない」ということにはなるが、実際そこで発生しているのは、「○○という職業の人」に対してろくに情報もないのにその人の人生全体を思い描くほどの想像を膨らませているということである
「想像力がある人」からすれば思いもよらないような想像がそこにある
「ストーリーをでっち上げる」とか「妄想」とか、色々言いようはあるだろう
大事なのは、そういう想像を膨らませている人にとって、それは「でっち上げ」でも「妄想」でもなく、真っ当な「想像」であるということ
全く真っ当な想像ではないのだが、本人はそう信じている
よって、「想像力を欠いた人が多い」と言われても自分のことだと思わない
ゆえに、訴えとしてはより正確な言葉を用いなければ現状の打破には繋がらないように思う
同じことが「思いやり」でも発生する
「思いやりがない人」は、自分に思いやりがないと思っていない可能性がある
また、「思いやり」の四文字が指している意味合いが共有されていない可能性がある
結局何がどうなってほしいのが「思いやり」なのかという話
「何をすればいいのか」ではなく
もちろんテレビ的にはとか色々なあれこれによって言葉は制約されるのだが、そうやって濁して「わかる人にはわかるそれっぽい言い回し」によって表現していると、それを誤解した人が誤った方向に突き進む燃料になる可能性もあり、逆に悲惨になる場合があり得る
曖昧な表現であっても、訴えないよりは訴えたほうが「わかる人」を動かすことにもなるので、結果として前進することになるとは思う
が、その曖昧さによって直接「わかっていない人」の困った言動を加速させる可能性があることを常に考えておく必要がある気がしている