「内輪」アレルギー
前提
いくつかのページでの思索に「内輪」が嫌だという話に行き着いた(話の結論ではないが)
nora.icon「内輪」に対してかなり強いアレルギーがあるかも、と思った(体育会系集団に身を置いていた結果) nora.icon「内輪」を作っていくことは人間関係の基本であるような気はするけど、それは他の集団と利害の駆け引きまたは他の集団と戦うための団結が必要とされる状況にあるからで、駆け引きも団結も要らないなら「内輪」も要らなくない?と感じている。人と親しくなることは内輪を作ることではない。
rashita2: 当人にとって心地よいことだが周りから孤絶するような言説を投げ、それによって生じた孤絶を閉じたコミュニティー内で相互承認し合うことで、その場所こそが「自分のための場所だ」と感じさせるようなモデルがあるわけですね。
nora.icon自分の「内輪」アレルギーはこれも要因として大きい…。わざわざ厳しい目を向けて批判し合う必要はないにしても、甘やかされるべきでないものを甘やかす空気は要らない〜…。
nora.icon馴れ合いが本当に無理。横暴が「共感」によって許されるのはもううんざりだ。「個」の集まりとしての場であってほしい。
nora.icon(「ひらかれた場」にひらいていくにはでは)「ひらかれた場を求める人」として「自省的である」ことを前提に考えていたから「何を言っても許される」を条件としたけど、「ひらかれた場を求めている(と自分では思っている)人」は「(良識を著しく欠いていても)何を言っても許される」ことを「ひらかれた場」であると思って要求するかもしれぬ。 nora.icon「ひらかれた場」では否定的な指摘もあり得るだろうし、それが自尊心を傷つける形にならないのが大事…というか、明らかな否定を用いなくとも疑問を投げかけられた時点で自力で軌道修正できるような精神を整えていないと参加が難しいのかもしれない。でないと隙あらば「とじる」ことを要求してしまう。
「内輪」というふうに括弧書きをしているのには理由があり
私が言いたいのは「内省的態度の無い排他的な集団」みたいなニュアンス
まあ内省は疲れるし、異物を受け入れるのも疲れるんだろう
よって、そのストレスを感じなくて済む場を作ろうとするのは自然ではある
「この人達は親しいグループなんだなあ」ということにアレルギーが発動するわけではない
誰かと誰かあるいは集団内の仲が良いことは素敵なことだと思います
「内輪ネタ」を外でもやるようなのは基本的に恥ずかしいことだと思う
その恥ずかしさをも含めて外に向けてネタにするならいいのかもしれないけど、それはエンタメとして結構高度な技術を求められる気がする