「タスク管理」ってのらてつワールドに合ってないな、
じゃあ何って言うと…なんだろう…
taskの意味
(課された)仕事
(一定期間内にやるべき)作業
(困難な)任務
🤔
この意味からすると、「タスク」は常に何かしら明確な目的と姿かたちを持ったプロジェクトの下位に存在するものというのが前提か
プロジェクトが明確な「仕事」に対する語彙としては(個人的には使いたい語彙でなくとも)違和感は全然ない
共通言語として不可避なワード
「仕事」の場合は自分のやることや自分そのものがそのプロジェクトや属する企業や社会全体に於ける「部品」であり、工業的なイメージと一致する感じがある
プロジェクトの下位にない「やること」の位置づけが曖昧
プロジェクトを「人生」にしたら全てが「タスク」になるとも言えるが
そもそもその「プロジェクト」とか「タスク」とかいう感じがのらてつワールドに合っていない
カタカナ語をやめろォ!!
カタカナ語っていうか、抽象的なものを抽象的な語彙で表現しているのが多分馴染めないポイント
事実として抽象であるので、正確に指し示すには抽象的な語彙である必要があるけど(よって抽象的な語彙自体が悪いとかいう話ではない)、それを実際に自分が扱う段階に於いてもその語彙でなければならない法はなかろう、みたいな感じ
既存の日本語で表現しにくい抽象的な概念がカタカナ語に託されやすいので、結果的にカタカナ語に馴染めなさを感じる機会が多い
別に「ワールド」とか「ハードル」とかに抵抗感はない
具体的なものをイメージすることができる語彙によって抽象的な概念を示すことには抵抗がない
ちなみにのらてつ辞典の「辞典」は「紙」の質感が「木」に結びついている
人の手の感触という意味での身体感とも違うので、「やること」もまだ合っていない
あんまり「人間」を感じたくない
「やるか、やらないか」「如何にして『やる』の確実性を高めるか」といった話を、「タスク管理」という語無しに捉えることはできるか
いや受け入れた方が早いし他の人との接続も良くなるし、敢えて苦労して言い換えることに「メリット」があるかはわからない
受け入れた方が早いというか、実際に普段は「プロジェクト」や「タスク管理」を使っている
が、それは常に異物である
体に埋め込んだシリコンのように、馴染ませている間は馴染んでいるが、いつ拒絶することになるかわからない感じ
「タスク」的なものをとりあえず素朴な表現にして解体すると
やること=ToDo
やるべきこと=Must
責任者なのでやらねばならないこと
やらないと生存できなくなること
やらないと尊厳が毀損されること
(進めるか、停まることを余儀なくされるか)
やりたいこと=Want
やったほうがいいこと=Should
人生設計上必要なこと
人間関係上必要なこと
精神衛生上必要なこと
(良い道を選べるか、悪路を強いられるか)
やったこと=Done
またやること
もうやらないこと
ところで植物にとっての「タスク」とは?
一連の段階(マクロ)
発生する(=芽を出す)
代謝する(=光合成するetc)
成長する
構造の発達(=葉を出す、花芽を作るetc)
大きさの増大(=茎・枝を伸ばす)
開花する(=花を開く)
結実する(=実が生る)
生物体として行われていること(ミクロ)
細胞分裂
増殖
化学反応
処理
吸収・排出
輸送
植物のこの一連について何と表現される?
例
生活史
過程
成長段階
様子
しくみ
これらの語彙の傾向
われわれがその一連の主体ではないため客観的
「観察して見えるもの」のニュアンス
私の活動を示すものとして使えるか?
カメラをどこに置くのかということ
自分の目の位置なのか
頭の後ろくらいなのか
明らかに離れたところから眺めているのか
私の活動を、外にあるカメラから観察するとすれば
イメージとしては「様子」と「段階」によって全てが整理されそうである
「やること」は、「生活史上、それをやる段階にある」という感じ
個々のアイテムであることよりも、それが置かれた場に依存したものであることが強調される
「意志」の概念を排除する
「機械的」ではなく「植物的」あるいは「生体的」みたいな認識を通じて
「機械」ってスイッチ入れるの人間なんだよね
「○○期」?
Want、Should、Mustの区別は?
その状態の区別というより、理由に着目したほうがいいかも
状態は理由によって決定される
理由とは要するに置かれた場のこと
「文脈」とも近い
ちなみに植物的には?
基本は全てMustだろうが
枯れないための
隙あらば拡大したい、というのはShouldかWantと言えなくもない
拡大しなくてもその個体は生きていけるが、拡大すると種(しゅ)として得になる
そもそもWantとShouldを区別する必要があるかどうか
やらないという選択肢があるがやったほうが何かしらプラスになるという括り方とするなら、どちらも同じ箱に入る
個人的か社会的かという区別は流動的な感じがする
「段階」「様子」「分岐」で整理する
個々のいわゆる「タスク」は「分岐」のひとつ
「やる」「やらない」「やった」
それぞれに対して次の分岐が発生する
しかし扱うためのネーミングは結局必要か
自分の実行による分岐
自分岐? 内分岐? 実行分岐?
外部の状態による分岐
他分岐? 外分岐? 状態分岐?
例
依頼相手からのメールの返信とか
晴れならこうする、雨ならこうする、とか
自分の体調も「意思の外」という意味で外部扱い
より植物的にするなら「分枝」
しかしこの場合の「分岐」は、「枝」のイメージと結びつけたいわけではないな
背景にあるのはあくまで「植物も環境によって選択をしている」ということ
「枝」と結びつけたいわけではなかったが、「剪定」のイメージをどこかに使いたいと思い始めた
でもそうすると「植物のメタファー」ではなく「庭師のメタファー」になってしまい、結局「人」になってしまうか
いずれ合わなくなってくる予感がある
むしろ外部からの制約を「剪定」と捉えるか
しかし「切られる」イメージは強過ぎる感もある
一方で剪定は本来「良くする」ためのものである
植物視点で「剪定」を取り込むのは複雑過ぎて全くわかりやすくならない
よって思いついて5分で却下