▽議論は仮説提示派と事実提示派が交互に織って形作られる
nora.iconUnnamed Campについて考えていたんだけど、「これについてあなたはどう感じますか」という問いがページ作者あるいは既にページに書き込まれた議論によって生まれている(ように見える)とき、自分は書き込みやすいし、他の人も活発になっているなと感じる。「これは何ですか」的だと手が止まりがち。 nora.icon誰かがどうすべきとかいう話ではなく、たまたまそこに生まれた空気によって、たまたま活発度が変わっていくのだなというのを眺めているところ。
nora.icon意識的に、「これに対してどう感じますか」型の、活発な議論を呼ぶタイプの場ばかりにしていったとすると、それはそれでもはや「知の営所」ではない何かになってしまうと思うので、別にそうあってほしいのではないんですよね。
nora.icon「少しひらく」みたいなことを考えるとするなら、「○○とは〜〜である」型の記述をベースに、「ちなみにどう感じますか(not思いますか)」をさり気なく問うような空気がそこにあると、たぶん書き込みたくなる気がする。(が、機械的に「どう感じますか」と添えれば良いわけではなさそう)
nora.iconなんというか、取っ掛かりがあれば無尽蔵かのように思考の大河が流れるような人間だけで構成されていたとしても、思考の水が流れるルートを見出だせないと流れていかないということになりそう、みたいな。各々他に場所を持っているだけに余計に。その「流れたさ」を決めるのは何か、を今考えています。
nora.iconまず自分自身の「流れたさ」を考えています。
nora.icon「知の営所」といった場合に考える対象は、なんというか、それで生計を立てているのでない限りは「別に考えなくてもいいこと」で、「困っているから解決したいこと」という形でぽんぽん出てくるものではなく、たまたま思考の水が染み出していったから結果流れて川になった、にならざるを得ない感じ。
nora.icon例えば「こういうことを1単語で言い表したいが、何がいいだろう」という問いが提示されたとすれば、「それを自分も1単語で言い表せない、困った」という意識が生まれ、ああでもないこうでもないが始まる。「言われてみれば…」というチコちゃん的問いは、言われたときに「困った」になるから脳が動く。
nora.icon(だから誰かが○○すべき、の話をしているのではないです(再))
nora.icon(別に「問題意識」を持っているのでもないです)(このままじゃ駄目だ!的なことを言いたいのではない)(単に、更新頻度が落ちるとはどういう現象か、を考えています)
nora.iconというか、更新頻度が上がるとはどういうことか、のほう。なぜ書き込まれるのか(なぜ私は書き込むのか)。
nora.icon「こういう事象を捉えた(=仮説)」ということをガンガン出力できる人と、「既存の事象に対して今私はこう感じている(=事実)」ということを出力できる人とがあり得て、私は完全に後者ですが、両者が交互に絡むことによって広がりというのは生まれていくのだろう。何かを捉えるには事実が必要ゆえ。
nora.icon仮説に対して事実を並べ、並べられた事実から仮説が生まれる。それらが偶然交互にハマったときに急激に話が進む。どこかでどちらかに偏るとそこで止まる(かもしれない)。事実を絡めにくい抽象度の高過ぎる仮説であったり、逆に一度に提示された事実が雑多過ぎて仮説を構築できなかったり。