▽私は「使用頻度」でものを認識している
旧題:私という存在の生息範囲は「みんながよく通る道」に限られている感じがする
nora.icon自分は言葉を扱うのは得意な方だと思っていたけど、なんかちょっと違っていた。
nora.icon「伝えたいことが伝わる構造に整形する」のは多少得意かもしれないが、「単語」を操る力はあんまりない。普通に文章で使われる範囲の(=高校までに習う)言葉を取り出して来れるという意味では普通の能力はあると思うけど、それを超えて多様なニュアンスごとに分岐した単語を操るのはむしろ苦手か。
nora.iconこれもまた「名付け」が苦手ということに繋がってしまうのかもしれない。認識は基本的に形容詞的に外から生じていて、ダイレクトに「これこれこういう意味を内包した一単語」となるとなんか逆に認識に手間取る。 nora.icon専門用語が総じて嫌なんだけど、「○○的△△××」みたいに普通に扱っている熟語の組み合わせで出来ていればそんなに抵抗がない(その組み合わせがきちんとイメージ通りに選ばれたものであるなら)。でも単語を覚えるのが下手かというと、むしろ得意な方なんだよね。獲得と習得の間に距離がある。 nora.iconそう考えると、むしろ自分の認識の最小単位は超Atomicなのでは? でもまず分子にして扱うのが当たり前すぎて分けようと思ってない。CO2をCとOには分けない的な。あとは、他の人は原子量の大きいウランとかの原子を扱えるけど私は水兵リーベ僕の船の範囲しか使えないみたいなイメージか。 nora.iconん〜〜、でも例えばCO2の扱いには慣れているけどCOになると必ずしもうまく認識できるわけでもない。結局は、単語それぞれについて、使用頻度順に上から何番目までのニュアンスを認識できるみたいなことでしかないのかな… でも経験値の問題っぽいように見えるけど「努力したが無理だった」んだよね。
nora.iconもしそうなら、単語の数が多いほうが、「各単語の上位○位以内の意味」の総量が増えるんだから認識がしやすくなるはず…だが、単語自体の使用頻度が少ないと使用頻度順1位のものでも身体化しない。吸収するか否かの選択に、「一般的にどの程度の頻度で使われるか」の計算が関わりすぎている気がする。
nora.icon私という存在の生息範囲が、「みんながよく通る道」に限られている感じがする。「みんながよく通る」ということで生まれる何かを取り込んで生きている気がする。そこから出られないのは果たして「知性の不足」なのかどうかという問題。 nora.icon私にとっての学習というものは、人の手で抽象的に表現した概念的な何かに対するものではなく、じっと観察していて生き物たちの行動に現れた癖を判別することによって出来ているということなのかもしれない。私の中でその二つの間にかなり深くて幅の広い溝がある。
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