▽実業家と知的生産家のテンションの溝は埋まりそうにない
nora.icon実業家とか「働き方」を提案してる人々と知的生産や「生き方」を語っている人々、「人間の生活を豊かにする」という点で共通するからかよく同じテーブルで対話してるのを見るけど、両者のテンションの種類が根本的に違うのは永久に埋まらない溝なのだろうか、ということを思ったりする。
nora.icon両者の間で全く異なっているのが「俯瞰的に見る」という意味だと思う。
nora.iconコントロール対象に当然のものとして他者の存在を含めるか、あくまで自分の出力に責任を持とうとするか、そこが違えば全ての態度が違ってしまうんだろう。
nora.icon今より幸せになるために必要なこととして考えるものが外的環境か内的環境かというのは根っから逆向きという感じがする。人間が豊かになっていくには両方が必要であって、そして一方の向上がもう一方の向上に寄与するにも関わらず。(寄与させようと思わなければ何も寄与しないからかもしれない。)
nora.iconどっちが良いとか正しいとかじゃなくて人間が生きるのが社会である以上はどっちも必要なんだけど、全く違う思考形態であってどちらが正しいわけでもないことを共通認識として持っていなさそうな雰囲気の、それっぽい結論は出しつつもついぞ噛み合っていない対話にそろそろうんざりしてきた。
nora.iconあとなんか、「楽しく生きる」を「軽快に生きる」と区別しない、もっと言うと「全ての価値を軽く捉えることで苦痛を振り落として愉快っぽく生きる」みたいなことと区別しない考え方がすごくイヤだ。
nora.icon「世界とはこういうものなんだな」という何かしらの悟りを得るということは、その「世界」を「こんな程度のもの」とあたかも手のひらに乗せて弄べるかのように認識することとは別物だと思うけれど、何事についてもそういう結論に至ることが「解った」ということであると信じている層の存在を感じる。
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nora.icon「笑い飛ばす」を物事の解決策として想定する態度は巡り巡ってモーニングスターを振り回すかの如き脅威に変貌している気がする。