▽「結果」の定義を外注していると「結果を出さなきゃ意味がない」になる
nora.icon社会の中にある「結果」は、誰かが、あるいは社会が「ここから上を『結果が出た』と定義しますよ」と言っているに過ぎず、そのラインは変動するし日常で用いる概念としては不安定で曖昧過ぎるなあ、ということを思いました。
nora.icon「結果」の定義を外注し過ぎているのかもしれない。自分なりに「ここから上を『結果が出た』ということにする」と考えればそんなに結果が遠いものにはならないのに、自分から遠いどこかの誰かに「結果」の定義を丸投げすると「どんなときも(外注した「結果」に届かないと)意味がない」が発生しそう。
nora.iconそもそも結果というのは日本語的には「何かをしたらこうなった」ということであって何かをしたら何かの結果は出るのに、一般的に「私が・親が・指導者が・社会が何らかの思惑に基づいて求める水準」を指しているのがいつも気持ち悪い。(※世界に対する愚痴)
余談
nora.icon「そもそも」「そういえば」「ところで」を封じられたら何も言えなくなりそう。
nora.icon思考が活性化すると恨みも溢れてきてそちらに根を伸ばしてしまうから、もうちょっと泰然自若としていたい。