▽「この人のこの言葉」に紐付けた批判の活発化は言論を萎縮させる
nora.icon「静かに読まれる」ためには個人ブログが良いのだろうか……
箸にも棒にもかからないような文章しか生まないのに騒がれる可能性を考えても無意味だが、投稿者の気分としてnoteは正直なところあまりにも「公共の場」感が強すぎるように感じている。読まれやすい=読まれてしまう、の構図の宿命……
nora.iconそこに投稿されたものについては好き放題に語ることが許される場、という空気。そして強度(?)の「公共の場」なので、一般常識っぽいものと照らして望ましくなさそうなもの(と読み手が感じたもの)については積極的に批判することが求められているかのような雰囲気を感じる。匿名ダイアリー同様に。
nora.icon言論とは元来そういうもの、と言われたらそれまでなのだけれど、「言論」的な磁場の中で物を語りたいかというと、首を縦には振り難い。発表する以上当然責任は伴うが、「責任=責められる義務」ではないし、「批評=責め詰ること」でもない。SNSはあまりにも簡単に他人の言葉について述べすぎている。
nora.icon何かを見てこう感じた、考えた、ということを発信していくのは総体として豊かさに繋がっていく営みだと思うけれど、「この人のこの言葉」ということに紐付ける語り口が過剰になると、(他にも同様のものは存在するのに)たまたま紐付けられてしまった、という事故のリスクが大きくなりすぎて萎縮する。
nora.icon自分が批判している対象はここに実在している、と証明するためにも紐付けはせざるを得ないという面はあるけれど、そもそもその批判は必要かということは考えて然るべきではと感じている。批判の目的は何か? その目的にその方法の批判は有効なのか? そのことを明快に説明できるか? ということ……
nora.icon必要な批判は必要だが、必要ない批判は必要ない。但し必要か必要でないかを判定するものさしは自分の外部にはなく、人からとやかく言われる筋合いはないのだろう。しかし、自分にとって自分の行いが必要なものかどうかは自分自身で責任を持って判定していかないと、他人どころか自分の得にもならない。