▼有機志向と無機志向
nora.iconなんとなく、人それぞれ自分の中に「この要素は有機志向、こっちの要素は無機志向」みたいなのがあり、どういう組み合わせになっているかで何をどう認識するのが馴染むかが違っている感じがする。
nora.icon私はメタファーでものを認識する(=有機的)且つメタファーは植物や手で扱えるもの(=有機的)、しかし情報は整然としていることを強く欲している(=無機的)、ただし情報につけるラベルは抽象的にできないし(=有機的)更に原子的に分割したくならない(=有機的)、みたいな。
nora.icon最後の原子的分割については訓練次第というか、どうしたって実際取り扱える粒度のサイズには限度があるよねという話ではあるので、「絶対に曲げられない個性」というほどの話ではない。でも他の要素はあんまり変わらなそう。
nora.iconいっそ全部有機的なベクトルで統一されてれば、ごちゃごちゃしてたとしても不本意感は発生しない気がするのに、途中でそうでないものが入ってるからその前後の自分の特性と合ってない感じがする。
nora.icon自分にとって共通項がわかりやすい存在として大変僭越ながらお名前を挙げると 自分の中に倉下さん的感覚とTak.さん的感覚とがあり、どちらの感覚も部分的によくわかる気がする一方で、両者はやはり違うものであるので、同居するということは何か接続に私固有のものを自覚しなければならない気がする。
rashita2:これが「一つ上の階層」を見出すということで、それはStructurally Revolution(構造的革命)と呼ばれている(と今決めた)。
rashita2:つまり、倉下的なものに属する自分と、Tak.的なものに属する自分というものがあったときに、自分的なものを一つ上の階層に持っていって、倉下的なものとTak.的なものをその下に「位置づける」という行為のことである。
takwordpiece:@rashita2
倉下的
のらてつ的
Tak.的
のらてつ的
↓
のらてつ的
倉下的
Tak.的
nora.iconなるほど! アウトラインで整理されたのがなるほど過ぎる。
nora.iconぼんやり振り返ってみると、私は普段あんまり「属する」という概念を使っていないかもしれない。範囲のあるものの関係を考えるときには常にベン図が頭にあって、且つ私自身のことも要素ではなく集合としてイメージしているから、属する要素より共通部分に着目するイメージがある。